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目が覚めると小学五年生だった。

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 焼き魚に牛乳という組み合わせに一瞬たじろいだものの、鮭のクリームパスタがあるのだから、相性は良いはずだと思い直す。
 しかし……なんだろうな。別個に食べることの、この違和感は。

 とりあえず、ひじき大豆という名のひじき煮を口へ運ぶ。
 それは、ひじきだった。
 紛うことなき、正真正銘のひじきっぷりには、懐かしさすら感じる。
 実際に懐かしいのだが。
「炊き込みご飯にすれば美味しいのに」
 懐かしさに緊張を緩めてしまった俺が、ぽろり、と漏らしたその一言を、尾崎絵美は聞き逃さなかった。
「何が美味しいって?」
 聞こえてたくせに、聞き返すんだな。
 何かしら会話のきっかけを探して、チラチラと視線を投げてきていたのには気付いていたが、意図的に気付かない振りをしていた。
 生憎、食事は静かに素早く済ますタチなんだ。食うときは食うことに集中したい。
 ……そうだな。
 昨日まで、食事は一人だったから。誰かと話しながら食べるなんてこと、年に数えるほどしかなかったから。
 背筋を伸ばして、相手と話しながら食べるための手順を思い出す。
 まず自分が話す。相手が返事をしている間に食べる。
 相手が話し終えたら箸を止めて、話す意思があることを声以外で表明しつつ、相手が箸を口に運ぶまで咀嚼を続ける。
 そして自分が話す。これを繰り返す。
 ……よし。
「ひじきの炊き込みご飯だよ。お米にひじきの味が染み込んで……」
 入念な確認を終えて話し始めた俺は、直後に自分の目を疑わざるをえない事態に直面した。
 あろうことか、尾崎絵美は箸を置いて聞きに徹し始めたのだ。
「へぇ〜。江口くんが美味しいって言うのなら、私も食べてみたいなぁ。お母さんに頼んでみようかな」
「簡単さ。炊くときに一緒に放り込めばいいだけ。分量は、まぁ、経験かな」
 思考と口とを切り離す。
「江口くん、お料理できるの!?」
 炊飯器に材料ぶち込むのが料理というのなら。
 そう返そうとして、大変な地雷を踏んでしまったことに気付いた。
「すごーい。他には何が作れるの?」
 目を輝かせて、身を乗り出して。
 忘れていた。お米を炊けるってだけで、羨望の眼差しが向けられる時代だった。
「それはヒミツ。食べないと冷めちゃうよ」
 ちょっとドキドキしてる。
 昨日まで三十一歳だったのに、十一歳の女の子に楽しそうな嬉しそうな笑顔を向けられただけで、ドキドキしてる。
 ……俺、大丈夫か?

 食後、昼休み。
 クラスメイトは勢い良く運動場に駆け出し、野球やらサッカーやらを楽しんでいる。
 俺にはそんな元気はない。身体は動くだろうが、心のほうが無理。
 身体は十一歳だが、中身は三十一歳。
 だから、寝る。寝るのだ。
 三十一歳の俺は、机に突っ伏していた。
 寝てる場合じゃないのは分かっている。今朝からなんとなくで流されてきたが、そろそろ現状を確認しておくべきだろう。
 これはもう夢じゃない。
 頬を抓っても、太腿を抓っても、痛い。
 何のファンタジーか、中身だけ過去にタイムスリップしてきたんだ。
 タイムスリップはSFだったか。
「気分悪いの?」
 尾崎絵美。もう声を再認識済み。顔を上げなくても分かる。
 分かるのに。
「そんなことはないけど、どうして?」
 俺を見ている彼女の姿を欲してしまう。
「いつもお昼休みは運動場で遊んでるのにさ、今日は行かないのかなーって」
「お腹が膨れて眠い」
 嘘は吐いていない。
 言い方が冷たくなってしまったのは、彼女のはにかんだ顔を直視できなくなったから。
 俺だけを目に入れている彼女の姿を欲して、なのにいざとなると受け止められなくて。
 ……俺、たった半日でおとされてしまったんじゃないか?

 午後二時を回った。
 今日の授業はすべて終わり、たった今『帰りの会』も終わった。
 担任教師が教室を出ると、あとを追うでもなく、先を争うでもなく、一人、また一人と教室を飛び出していった。
 突如として降って湧いた、夢のような現実。
 小学五年生からのリスタート。人生の全部をやり直せるのと同じだ。
 諦めた夢にもう一度チャレンジしてみたり、堅実な人生を歩んでみるのもいい。
 未来に広がるのは無限の可能性。しかも俺は、その中に潜むハズレの道を知っている。
「将来の夢……か」
 小学五年生の頃に将来のことを真剣に考えていたかというと、そんなことはなくて。
 学校に行って、楽しくもない授業を受けて、勉強なんかしたくない、宿題なんかしたくないと駄々をこねて。
 それでも毎日学校に行って、嫌じゃないけどとりわけ楽しくもない、楽しくはないけど何が何でも嫌ってわけじゃない、そんな毎日だった。
 二十年後の俺と同じ。惰性で毎日に流されていた。
 昨日までと、同じ。
 でも今日からは、違う。
 そんな決意をしてみたところで。早急に目的が決まるわけもなく。
 とりあえずは、午後二時という早すぎる帰宅のあとの、持て余すであろう時間の使い道を考えないとな。
「江口くん、また明日ね」
 やめろよ。俺が帰るのを待っていたんじゃないかって誤解してしまうような、これ以上ない抜群のタイミングで声を掛けるのは。
 極普通の挨拶だ。クラスメイトに向けた、ただの挨拶だ。
 教室の端で友達と話していたはずの尾崎絵美から、ランドセルに手を伸ばした直後の俺へと向けられた、「また明日」の挨拶だ。
 職場で耳にする「また明日」は心底不快だったのに、同じ言葉なのに、どうしてこうも違って聞こえるのか。
 答えはもう、胸の内にある。
 またね、と手を振れば、きっと手を振り返してくれる。
 でも俺は、彼女を直視することができなくて。
 だから、手を振ることができなくて。
 かといって、彼女を無視することもできなくて。
「まったねえぇぇぇぇ!!」
 何の脈絡もなくテンションだけを上げて。
 叫ぶようにしか「また明日」を返せなくて。
 下足箱の前で早速そのことを自己嫌悪したり。
 息が詰まる。
 鼓動が止まない。
 これが恋か。そうだな。二度目の人生は、恋に生きるのもいいかもしれないな。
 だが落ち着け。恋に生きるにしても、相手を間違えるな。
 年が明けたら尾崎絵美はもういないんだぞ。
「ぐっ……」
 三週間後のクラス誕生会を境に、尾崎絵美が不登校になってしまうこと。
 年が明けた新学期には、隣の席の尾崎絵美はもういないこと。
 かつて経験したこれから起こる未来を思うと、胸がより強く絞めつけられる。
 一日でこれじゃあ、何日も耐えられそうにない。