目が覚めると小学五年生だった。
全部、俺のためだった。
「私…転校したくない! 江口くんと会えなくなるの……や…だ」
三十一歳の俺なら、行くなって言えたのに。
小学五年生の俺には、肩を抱いてやることもできやしない。
そんな俺にでも、ただ一つ尾崎絵美のためにしてやれることがある。
「応援するよ」
引き止めることはできない。一緒に行くこともできない。
尾崎絵美が望む言葉は、何一つとして言うことができないけれど。
それならせめて、そっと背中を押してやる。
「会えなくなるけど、応援してるよ。女優になるんだろ?」
二十年後の俺は、尾崎絵美が何をしているのかを知らない。けれど、俺がそうであったように、たくさんの人に出会って、応援してもらったり、鼻で哂われたりしながら、人生を歩んでいくのだろう。
俺は、その中の一人にしかなれないけれど。
俺自身は、途中で挫折してしまったけれど。
「江口くんなら、そう言ってくれると思ってた」
言葉とは裏腹に、尾崎絵美には笑顔がない。
まだ足りない。俺が尾崎絵美にしてやれること、まだある。
俺だけがしてやれること、まだある。
「山下にだって、悪気ないんだ。あいつも絵美ちゃんが好きなんだよ。愛情表現が下手すぎて、意地悪しかできないんだよ」
「さっきも、今朝もだけど…また絵美ちゃんって呼んでくれたね」
「あ…ダメだった、かな?」
「嬉しかった。嬉しかったよ」
俺が沖田真理を真理ちゃんと呼んでいることを勘違いして、それに嫉妬して。
俺と沖田真理とを近づけようと画策しておきながら、自身は沖田真理になろうとする矛盾した行動をして。
俺に玉砕してもいいと思える勇気とその覚悟があれば、こんなに辛い思いをさせずに済んだ。今を逃せば、償いの機会はもう訪れない。
「江口くん。私ね、夢があるの」
「うん。応援するよ」
「ちゃんと聞いて欲しいの」
「分かった」
ストーブの前から離れて、向かい合って立った。
「五年三組尾崎絵美。あなたの夢は何ですか?」
「そういうことじゃ……なかったんだけどな」
恥ずかしそうに笑う尾崎絵美。
俺の目にだけ届く、控えめな笑顔。世界で俺だけが手にできた宝物。
俺だけの、宝物。
「いいじゃないか。ほらほら、もっかいね」
「うん」
二人して咳払いをして、それから姿勢を正す。
「五年三組尾崎絵美。あなたの夢は何ですか?」
「私の夢は、女優になることです。それも、日本一の女優になることです」
言い終えて、目を合わせて、二人で一緒に笑顔を弾けさせた。
「必ずなれるよ。絵美ちゃんなら」
「江口くんが応援してくれるなら」
「応援する。ずっと応援してる」
「私ね、もう一つ夢があるの。それも応援してほしいな」
「応援する」
馬鹿の一つ覚えとはよく言ったもので、それ以外に言うことはないし、言えることもなかった。
「ホントに?」
「ホントに」
「じゃあ、聞いてくれる?」
「聞かせて」
尾崎絵美は、再び姿勢を正した。
先ほどよりも強い緊張が伝わってくる。
「五年三組尾崎絵美。私の夢は日本一の女優になることです。夢はもう一つあります。それは、江口くんのお嫁さんになって、江口絵美になることです」
まいった。
遠慮や外聞ってやつを知らない分、いざ直球を投げ込んだ際の威力が違う。
小学五年生の戯言だといってしまえばそれまで。卒業文集に『○○くんのお嫁さん』と書いた女の子はたくさんいるだろう。
でも俺、嬉しい。
そして、悔しい。
俺が言おうとしていたのに、先に言われてしまったから。
「それは応援できないや」
「え…そんな」
尾崎絵美は、この世の終わりみたいな顔をして、息をするのを忘れていた。
「代わりに約束する。日本一の女優に相応しい男になって、迎えに行く。必ず」
目を見開いて、両手で口元を覆って。
尾崎絵美は、大きな目を潤ませて。
「約束……だよ?」
声は震えていた。
「約束だよ」
今の俺は、気の利いた言葉を返せなくて、ただただオウム返しを続けることしかできないけれど。
「でも江口くん、信用できないよ」
「どうしてよ」
「何も言わないで聞いてって言ったのに、喋ってるもん」
それは無理だろ、と苦笑するしかない。
不安が解消されて心晴れやかになったのだろう。今の尾崎絵美は、最高に可愛い。
「おしおきします。目を瞑ってください」
このあとの展開が脳裏をよぎる。
まさか…な。俺たち、小学五年生だぞ? ちょっと都合のいい夢を見すぎだ。
あまり調子に乗るんじゃないぞ、俺。
「廊下、寒かったですよね。ありがとうございました」
「どういたしまして」
保健室の主は、邪魔が入らないように廊下で見張り番をしてくれていた。
実際に、担任教師が駆け込もうとしていたらしい。
話の途中で入ってこられていたら、今の俺の幸せ気分は永遠に手の届かないものになっていただろう。
尾崎絵美は一足先に先に教室に帰ってもらった。
やっぱり、教室に戻るのは気まずかった。
それはクラスメイトとの軋轢云々なんかではなくて、尾崎絵美と隣の席に座っていられないという意味だ。俺よりも尾崎絵美のほうが気まずいだろう。
とはいえ、俺も思い返せばにやけが止まらなくなってしまうわけだが。
明日、朝一番に言い過ぎてごめんとクラスの全員に謝る。
それで、この話は終わりだ。
残された一ヶ月、一秒たりとも無駄にはしない。
尾崎絵美が引っ越してゆくまでの間、最高の思い出をたくさん作ろう。
……そわそわ。
……そわそわ。
やることがない。
「あのね。江口くん、だったよね?」
「なんでしょうか?」
「そんなにそわそわされてると落ち着かないのよ。ベッドで寝ててもらえる?」
はぁ、と生返事をして、ベッドに寝転がった。
健康優良児だった俺にとって、保健室のベッドは未知の領域。断る手はない。
消毒液のような匂いそこしなかったが、シーツに糊が利きすぎていて、思っていたよりも硬かった。通販で売られているパイプベッドとあまり代わり映えはしない。
この先、“一度目”では経験できなかったことを、こうやってたくさん経験することになるのだろう。
俺は、出世とは無縁の冴えない安月給サラリーマンにはならない。絶対に。
天井の模様を目でなぞりながら、今後の展望に想いを馳せる。
兄貴から使わなくなった中学校の教科書を借りて、基礎からみっちりやり直す。
進路はどうするか。家計的には私立の進学校にいく余裕があったはず。それから頃合を見て、離婚だけはしてくれるなよと父親に釘を刺しておく必要があるだろうな。
尾崎絵美は、俺のことを、“江口やすなり”の名前を、いつまで覚えていてくれるだろうか。
ただ一つ願う。俺の存在が、尾崎絵美の人生を縛ってしまわぬようにと。
……なんだか眠くなってきた。
ベッドは硬いほうがいいって通販番組で言ってたな……。
少し眠ろう。そして目が覚めたら、第二の人生を始めよう。
いろいろあったけれど、出だしは上々だ。
作品名:目が覚めると小学五年生だった。 作家名:村崎右近