目が覚めると小学五年生だった。
廊下には、隣のクラスの担任教師が立っていた。
その視線が俺にではなく教室内に向けられていたから、視界に入っていなくても分かるように大袈裟に会釈してから歩き出した。
教室を離れて階段に差し掛かるまでの僅かな時間で、冷静を取り戻すことができた。だからといって、教室に戻れるかとううと、そんなことはなくて。
「失礼します」
仕方なく、宣言通りの保健室に向かった。非常階段や校舎裏に行こうかとも考えたけれど、上着を忘れてしまっていた。
「どうしたの?」
俺をにこやかに迎え入れる保健室の先生。
若くて綺麗な女の人、なんてことはなく、あまつさえ白衣も着ていない。大人になってから目にする“保健医”とは名実ともに別物だった。
「クラスに居場所がなくなってしまったんです」
「あらら」
説明は面倒だったが、嘘を考えるのはもっと面倒だった。
「保健室に行くと言って出てきましたから、先生が説明に来ると思います」
簡単な説明の最後をそう締め括る。
「そう。じゃあ、ゆっくりしていきなさい」
この時代は、まだまだ心のケアなんて言葉が出まわっていなくて、精神論とか根性論とかが幅を利かせていた時代だったから、教室に戻りなさいとか、正しいことをしたと思うのなら堂々としていればいいとか、そんな大人の対応をされたら、とことん戦ってやろうと思っていた。
「ストーブあったかいよ」
誘われるままにストーブに歩み寄り、手をかざす。
「キミは間違ってない。間違ってないよ。でもね、キミがこうやって逃げてきたら、今度はキミが守ったその子の居場所がなくなってしまう」
うすうすは感じていた。俺のこの行動が尾崎絵美に何らかの責任を感じさせてしまうであろうことを。
「そう……ですよね」
じゃあどうすれば良かったんだ!
……なんて喚いたりはしない。
あの場に留まることができなかったのは、もう変わりようがない事実。じたばたしても意味がない。くよくよしていても意味がない。
同じことがもう一度あれば、俺は同じことをもう一度やる。
だから反省などしない。後悔などしない。
解決方法は単純明快、俺が教室に戻ることだ。
ただし、俺が無理をしていないことを尾崎絵美が納得できる状況である必要がある。
今回の件では、尾崎絵美には何の非もない。だから責任を感じる必要などない。
それでも何らかの責任を感じてしまうような尾崎絵美には、誠心誠意本音の本音をもって、無理してないよ、と言ったとしても、納得してはもらえない。
時間を掛けることができるのなら、方法は幾つかある。けれど、長引かせることは、その分だけ尾崎絵美の思い出を汚すことになる。
今、五年三組の教室で行われているであろう担任教師による何らかの説教に期待したいところだが、その担任教師が笑っていたのだから、効果は望めないだろう。
以上を踏まえると、一つの結論に辿りつく。
無理。ファイナルアンサー。
教室に戻って、言いすぎましたごめんなさい、と全員の前で頭下げる。尾崎絵美には、応援しているよ、を個別に伝えてフォローする。
その方法が現実的だ。
「教室に戻ります」
そう言って、扉に目を向けたそのときだった。
「あの…失礼します」
耳に流れ込んできた、聞き覚えのある声。
おずおずと保健室を覗き込んできた尾崎絵美は、俺の姿を見つけて安堵の表情をみせた。
「おっといけない。職員室に用事があったんだった」
保健室の主が、すぐ戻るから留守番お願いね、と言い残して廊下に消えたのは、ほんの数分前のことだった。
俺がそうされたように、ストーブあったかいよ、と尾崎絵美を誘ったのも数分前。
話のきっかけを探し始めたのも、二人だけの空間に妙な緊張を感じてしまったのも、とてもそうとは思えないけれど、どれもこれも数分前のことだ。
ゆらめくストーブの炎を眺めている。視線を感じてその方向に目をやれば、さっと目を逸らされてしまう。そしてまた、ストーブの炎に目線を戻す。
「どうしても、許せなかったんだ」
目線はストーブの炎に向けたまま。だからこれは独り言。独り言なら“ごめん”と言ったりはしない。
第一声に“ごめん”以外の言葉を思いつけなかったから、そんな理由をこじつけた。
尾崎絵美は無反応だったけれど、俺には言うべきことを言えた達成感があった。
「困っちゃうなぁ」
ストーブの炎に視線を戻しかけたとき、尾崎絵美の、本当に困っているんだな、と分かる声が耳に届いた。
すぐに尾崎絵美を見たけれど、相変わらずストーブの炎を見つめたまま。
幻聴かと疑いを抱く寸前までいった。
「江口くん、何も言わないで聞いてくれる?」
「うん。分かった」
「私ね? 転…校するんだ」
知っていたのか。俺の驚きはそんな意味だったが、転校を知って驚いたように見えただろう。
「驚いた? そうだよね。なかなか言い出せなくって」
いつから知っていたのか、それを問いただしたいと思った。
「私、みんなが大好き。だから転校するのは嫌で嫌で、本当に嫌なんだけど、どうにもならないの。それでね、考えたの。みんなのことを嫌いになれば、転校も嫌じゃなくなるよねって」
その論理は、あまりにも悲しすぎた。
「山下くんならね、笑ってくれるんじゃないかなって。なにかするとすぐに意地悪なこと言ってくる山下くんなら、クラスの誕生会で夢を発表した私をさ、笑ってくれるんじゃないかなって。そんな山下くんをさ? 誰も注意しなかったとしたら、私は、クラスのみんなを嫌いになれる」
けれど、そうはならなかった。
俺が、怒りを顕に声を荒げてしまった。
「クラスのみんなを嫌いになれば、転校しても寂しくないじゃない? だって、ここには友達なんかいなかったんだから」
尾崎絵美の視線が向けられるのを感じた。
見やれば、目が合った。
「迷ったんだ。発表、どうしようか迷ったんだ。だってさ、笑ってもらうために夢を発表するのって、おかしいじゃない」
目の奥に、強い意志の光があった。
気付けば、自分より強い女の子が二人もいて。気付けば、その二人を同じくらい好きになっていて。
今なら、どこが好きなのかと聞かれても答えることができる。
「江口くんには、私の夢を知っていて欲しかったの」
その先を、尾崎絵美の口から言わせるわけにはいかない。
「絵美ちゃん、俺さ」
「何も言わないって約束」
尾崎絵美は、安い男の意地を貫く機会を与えてはくれなかった。
「全部、江口くんのせいだよ」
ごめん。
何も言わないという約束に縛られていなければ、きっとそう言っていた。
だってもう分かってしまった。
尾崎絵美が何を言わんとしているのかを、何を言わせてしまうのかを。
「お父さんとお母さんから引越しの話を聞かされて、転校するんだって思ったらね? 一番最初に江口くんのことが思い浮かんだの」
この子は、俺と同じだった。
俺なんかよりもずっと辛かったんだと思う。
「そんなことはないだろうけど、もし、江口くんが…私のこと……もしそうだったら、私は私のことだから耐えられるけど、でも……私…ね」
俺と沖田真理を近づけようとしたこと、俺にケンジくんを好きだと言ったこと。
作品名:目が覚めると小学五年生だった。 作家名:村崎右近