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目が覚めると小学五年生だった。

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 十一月二十六日。
 木曜日。
 少し早く登校して、沖田真理を待つつもりだった。
 寝坊したわけじゃない。俺よりも早くに登校して来ていただけのことだ。
「おはよ、江口くん」
 早朝の教室に一人佇んでいたのは、尾崎絵美だった。
「おはよう
 斜めに差し込む朝陽が、いつもの見慣れているはずの教室に神々しさを与えていた。
 日常とは違う空間だと自分に錯覚させるために、日常では用いない思考と感性とを開放する。そうして、驚いて混乱しているうちに理性を制圧してしまう。
 あとは、命令を下すだけだ。余計なことは考えるな、と。
「どうしたの、こんな早くに」
「江口くんこそ」
「早く目が覚めちゃってね。たまには一番乗りしてみようかなって」
「それじゃあ、悪いことしちゃったね」
「ちょっと悔しいかな」
「残念でした」
「それで、どうしたの?」
「なんとなく、江口くんが早く来るような気がしたの」
「そっか」
「ね、江口くん。聞いていい?」
「いいよ」
「男子はさ、真理ちゃんみたいに元気な女子が好きなのかな?」
「気楽に話せるってのはあるね」
 良き級友として、私情を挟まず一般論を答えた。
「江口くんも真理ちゃんと仲良いけど、そうなの?」
 しかし尾崎絵美は、お茶を濁そうとする俺の機先を制し、俺個人の見解を求めてきた。
 小学五年生だからこその、十一歳だからこその、真っ直ぐな眼差しで。
 唐突に、全部を話してもいいんじゃないか、と思った。
 俺が尾崎絵美を好きだということ以外の全部を、聞かれるままに話してもいいんじゃないかと思った。
 どうしてそう思ったのか考えることを、きっと“野暮なこと”と呼ぶのだろう。
「話しやすいと思っているのは認めるけど、恋心に繋がっているかっていうと、また別の話なんだよね。俺の場合はそれともちょっと違うんだけど……」
「え…?」
「ん? どうかした?」
「ううん、何でもない。違うってどう違うの?」
「俺と真理ちゃんの関係が特別だって意味じゃなくてさ。何ていうか……恩人なんだ」
「恩人?」
「例えば、俺に傘を貸してくれた人がいたとする。それで、ありがとうって言うのは勿論だけど、傘を貸してくれた御礼をしたい。恩を返したいわけさ」
「うん」
「でも、その人は傘を忘れたりはしない。俺がその人に傘を貸すっていう分かりやすい同じ価値の恩返しはできない。そうなると、傘を貸す以外の恩返しを見つけようってことになって、その人のことを知る必要が生まれる。分かるかな?」
「うん、分かるよ」
「必要だったから、なんていう義務感がすべてじゃないけど、きっかけの一つであったことは確かなんだ。話しやすかったからとか、そういう理由で友達になったわけでもないからさ、どうして仲良くなったのって聞かれたら、恩人だからってことになるんだ」
 沖田真理を振ったことを、尾崎絵美に告げたようなもの。だけどこれは、今の俺が沖田真理に対して抱いている感情の説明としては、何の嘘もない。
 だから、胸も痛まない。
「恩人……かぁ」
 不満があるとばかりに口を尖らせて、そうではない答えを求めてくる。俺の心を見透かそうと、目の奥の奥を覗き込んでくる。
 目を逸らして逃げたりはしない。言葉を挟んで誤魔化したりはしない。
「分かんないや」
 尾崎絵美の頭にある俺は、先週までの俺。尾崎絵美の目に映っている俺は、先週までの俺とは違う。
「仲良くなるのに理由なんてないよ。気が合うか合わないか、それだけだよ」
 俺たちにだって恋愛感情なんてないだろ、とは言えなかった。
「そうなんだけど……その、好きなるには理由があるよね?」
「じゃあ聞いちゃうけど、何でケンジくんが好きなの?」
「そ…それは……その」
「いいんだ。答えなくて。答えられなくて当然なんだ。言葉にすれば嘘になるよ。その瞬間その瞬間の気持ちは形に表せるけど、想いは形にはできない。好きな相手を想って言葉にした次の瞬間には、もっと好きになっているからね」
 言葉にすれば嘘になるとしても、好きという気持ちは伝えられる。
 どこが、とか、何で、とか、重要なのはそこじゃない。
 言いたいのはそういうことなんだ。
 三十一歳の俺は、まだうまく伝えることができない。
「江口くんてさ、すごいことをさらっと言うよね」
「実はね、ちょっと恥ずかしい」
「そうなんだ。そうは見えないけど」
「恥ずかしがってたらカッコつかないだろ」
 廊下を歩く足音が聞こえてきた。クラスメイトの誰かが登校してきたらしい。
 足音に気が付いた尾崎絵美は、そうだね、と言って立ち上がった。
 疑問を解消できたという手応えはなかったが、話はこれで終わりらしい。
 そう思った瞬間、口が勝手に開いた。
 いや、そうじゃない。口が開いてしまわぬようにと抑えていた手を、俺が自分の意思で外したんだ。
「そうだ、絵美ちゃん」
「えっ!?」
 尾崎絵美には違和感があった。
 未だに理解することが叶わない乙女心というもののなせる業なのだとしても、物怖じすることなく積極的に行動しようとしている尾崎絵美の姿は、あまりにも痛々しかった。
 勿論、俺にとって、だ。
「好きな相手が別の子を好きだからって、その子になろうとする必要はないんだよ」
 取り返しのつかない、大きな一歩だった。
 だって、気持ちを乗せてしまっていたから。視線や口調やその他のすべてに、好きだという想いを込めてしまっていたから。
 友達の線を踏み越えてしまわぬよう、意識して踏み止まっていた一歩だった。一度踏み越えてしまえば、もう止まることができなくなると分かっていた。
 けれど、踏み越えることに躊躇はなくて、踏み越えたことに後悔はなくて。
 もっと早くにこうすれば良かった、始めからこうしておけば良かった、そんなふうに考えるであろうことも分かっていた。
 踏み越えてしまった今は、どうして踏み越えることができなかったのか、それだけが分からない。
 想いの形が変わってしまったから。どこ探しても見つかりはしないから。
 ただ、前へ前へと進むのだ。
 他の誰でもない、自分自身が望む幸せのために。
「尾崎絵美が沖田真理になる必要はないんだよ」
 尾崎絵美には、俺の好きな尾崎絵美のままでいて欲しかったんだ。
 恋の手伝いはできないけれど、協力するという約束は果たせないけれど。
 それでも――

 この先にある思いに形を与えてしまうのは、卑怯なのだろう。