南国の雪嶺
高井をリーダーとする高井登山隊はジャヤプラからイリアン州内地のティミカへと飛んだ。そこからスカルノ峰のベースキャンプへは悪路を百キロメートルほど車で走らなければならない。ベースキャンプでは現地人がガイドとして待機していた。ペニス・ケースを着けたのみのまるで石器時代のような暮らしをしている現住民族だ。そのガイドの中に一人だけ肌の黄色い男が混じっていた。無論、衣服など着てはいない。着けているのはペニス・ケースのみだ。
その男の横顔を見た瞬間、高井の顔に衝撃が走った。
「寺田!」
その男はゆっくりと高井の方を向いた。
「高井……か?」
「そうとも。お前の親友、高井大作だ!」
「おお……!」
二人は久々の再会を祝し、抱き合った。お互いの目からは熱いものがこぼれている。
「それにしても寺田よ、お前、よく無事だったな」
「俺の駆る零戦がこの近くに不時着したんだ。燃料タンクに穴が開いてな。それからはこの部族の一員として暮らしている」
「この登山が終わったら、一緒に日本へ帰ろう」
「いや、俺は今の暮らしが気に入っているし、妻子もいる。今更、日本へ帰るつもりはない」
「そうか……、妻子もいるのか……」
高井が少し寂しげな顔をした。
「お前もよく地獄のニューギニアから生きて還ったな」
「ああ、敷島中尉とオーストラリア軍の捕虜になった」
「敷島中尉と?」
「ああ、空戦でオーエン・スタンレー山脈の乱気流にたられたらしいが、パラシュートで俺の目の前に落ちてきたんだ」
こうして和やかなムードで登山隊は登攀を開始した。スカルノ峰を含むカルステンツ山群は岩盤で形成されている。北尾根から登りはじめ、尾根沿いに山頂を目指すルートで昨年、ドイツの登山隊が登攀に成功していた。
「しかし、よく現住民族に同化できたな」
尾根を登りながら高井が寺田に話し掛けた。
「それしか生きる術がなかったんだ。俺はアメリカの宣教師が来て、戦争が終わったことを知った。宣教師の布教活動は熱心なものだった。それまでは部族間の争いや、倒した敵の人肉を食らう蛮行が見られていたらしい。だが、俺の部族は友好的だよ。それより心配なのはこの美しい山が荒らされないかということだ」
「どういうことだ?」
「最近、この付近の山には銅や金などの資源が眠っていることがわかった。幸いにもスカルノ大統領は植民地解放運動の旗手だけあって、外資の導入には否定的な立場を取っている。だが、アメリカはこの山々を虎視眈々と狙っているんだよ」
寺田は曇った表情でそう言った。スカルノ峰は難易度の高い山で、それなりの登攀技術を必要とする。だが、寺田の話によれば、彼は何度かスカルノ峰へ登ったことがあるという。正式な記録によれば初登攀は一九六二年のハインリッヒ・ハラーとなっているが、こうした現住民族による登攀もあったものと推測される。
登攀開始から二日後、高度を上げた登山隊は霧に包まれていた。そして、吹き付ける強風である。
「この風さ。この風に俺の零戦はやられたんだ」
寺田が笑った。
「寒くはないのか?」
「俺にはこれが正装だ」
寺田は自慢のペニス・ケースを擦った。
登攀はかなり高度な技術が要求された。しかし、寺田はザイルもなしにフリークライミングで登っていく。その技術の高さには高井は舌を巻いた。
そして入山から四日目の朝、登山隊はようやくスカルノ峰の頂直前の氷河に到着したのである。
「凄い、氷河だ!」
高井が興奮して感嘆の声を漏らす。登山隊の隊員たちは皆、赤道直下の氷河に唖然とし、惚けた顔をしていた。この頃より、今まで厚く登山隊を覆っていた霧が晴れ、日の光が降り注ぐようになった。
「寺田、お前の夢を俺もしっかり見届けたぞ」
「うむ、俺はこの雪山に抱かれながら、日々を暮らしているんだ。さあ、頂上まであと一息だ」
登山隊は頂に向かって、脚を動かし始めた。そして、昼過ぎに、ついに高井たち登山隊はスカルノ峰の頂上に着いた。幸運にも晴れ間は続いていた。
「やった、俺たちはついにニューギニアの最高峰を攻略したぞ!」
頂上から見る景色は絶景であった。南の崖下には湖が太陽の光を反射して美しく輝いていた。北側の真下には大きな盆地が見える。
「あれがンガプル峰だ」
寺田が南西にある高い峰を指差す。そこには氷河を抱いた雄大な峰がそびえていた。
高井は氷河からしきりにカメラで雄大な景色を、そのフレイムの中に収めていた。
「カメラか、文明機器だな。俺たちには無縁の物だ」
寺田が笑った。そして、寺田がカメラをよこすよう高井に言った。
「登山隊の記念写真を撮ってやろうじゃないか」
この時の写真は高井の生涯の宝物になった。
高井がスカルノ峰登頂から帰国して数年が経った。その間にインドネシアの情勢はめまぐるしく変化した。スカルノ大統領が失脚し、スハルト政権が誕生した。すると、スカルノ峰はプンチャック・ジャヤとまたもや名称変更を余儀なくされた。そして、スハルトは以前から話があった外資の導入を積極的に行ったのである。この頃からインドネシア軍と現地住民の武力衝突が度々行われるようになった。
そんな折、新聞の片隅にインドネシア軍がイリアンの現地住民を武装圧力で制したとの記事が書かれていた。現地住民の多数が死亡し、スハルト政権への反発が強まっているとの記事だった。そして、死亡した現地住民の中に「テラダ」という日本人と思しき人物が混じっていることを記事は伝えていた。その記事を読んだ高井は愕然とした。
「そんな馬鹿な!」
高井はインドネシアの日本大使館に連絡を入れた。
「ああ、確かに寺田新吉と思しき人物が武力衝突で死亡したそうです。ただ、日本に確かめたところ、その人物はラバウル航空隊に配属されて第二次世界大戦で戦死しているそうなんですよ。そのテラダを含め、現地住民はアメリカのフリーポート社の資源採掘に反対しているんです。自然が破壊されると言ってね」
高井は呆然として日本大使館の言葉を聞いていた。
高井は思う。寺田の戦争はまだ終わっていなかったのだと。おそらくは地元住民と決起し、外資を導入しようとするインドネシア政府と戦ったのだろう。そして、凶弾に倒れたのだ。
だが、日本も高度経済成長の最中にあった。明日の日を夢見て、国民が皆、新技術に傾倒していた。そんな中での寺田の死である。
高井は一枚の写真を握ると、その上にポタポタと涙をこぼした。スカルノ峰に登った時、寺田と肩を組んで写した写真である。モノクロの写真の上に涙は止め処もなく落ちていった。
それから時は流れた。日本の時代は昭和の終わりを告げ、平成の時代に入っていた。
高井には健太という孫がいた。よく高井には懐いている。その健太も大学生になった。
高井が息子夫婦の家を訪ねた時のことである。孫の健太が「おじいちゃん」と高井を呼んだ。健太の部屋にはパソコンがある。その画面に映し出されていたのはプンチャック・ジャヤ、つまりは旧スカルノ峰、カルステンツ・ピラミッドであった。
「健太、お前、この写真をどこで……?」
「インターネットだよ。大学で自然環境について勉強しているんだけど、ここは酷いらしいね」