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南国の雪嶺

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 アグネスは笑っていた。昨夜は夕日に染まって髪がオレンジに見えたのかと思った高井だが、やはりアグネスの髪はオレンジ色をしていた。
「ここにいても犬死するだけよ。もう、大丈夫でしょう? 歩くわよ」
「あ、ああ……。マラリアは君が治してくれたのか?」
「ふふふ、多分ね……」
 身体が嘘のように軽くなった高井は、アグネスとともに歩き出した。アグネスはポートモレスビーへ行くと言う。アグネスは身軽で、木に登っては木の実などを取ってきてくれた。高井はそれで飢えをしのいだ。
 アグネスは現地の地形に詳しいらしく、オーエン・スタンレー山脈の迂回路を通って進んだ。高井は木の切れ端を杖代わりにして歩いた。あのマラリアのだるさはもうなかった。
 クムシ川の河原を発って何日かが経過した朝、二人が歩いていると、爆音が聞こえた。上空では戦闘機が空戦を繰り広げていた。高い木々の間から、燃えながら墜落する戦闘機が見えた。
「友軍だ。零戦が墜落した!」
 高井が叫んだ。アグネスは恐怖に震えている。木々がざわめいていた。
 少し歩くと、パラシュートが落ちていた。そこで男がもがくように、パラシュートを外していた。
「やはり友軍だ」
 高井は男に近寄る。そして敬礼をしながら言った。
「自分は高井二等兵であります。お怪我はありませんか?」
「私は敷島中尉だ。ラバウル航空隊で隊長をしていた。今日は特攻爆撃機を護衛しながら飛んでいたが敵の数が多すぎてね。初めて飛行機が墜落した。オーエン・スタンレー山脈の乱気流にやられてね」
「自分はポートモレスビーに進軍する途中でマラリアに罹り、あのアグネスの案内でポートモレスビーに向かう途中であります」
「そうか……。それにしても不思議な女だな。現地人でも白人でもない」
「自分のマラリアを治してくれた恩人であります」
「つまりは味方というわけか」
 敷島は安心したように笑顔を見せた。
「拳銃を捨てなさい」
 いささか厳しい目つきでアグネスが敷島を睨んだ。
「何故、日本語が喋れるんだ。それに味方じゃないのか?」
「拳銃を捨てない限り、彼女は連れて行ってくれません。ここは彼女の言うとおりにした方が得策かと思います」
「わかった。ここに留まっても犬死するだけだからな……」
 敷島はホルスターから拳銃を引き抜くと、密林のジャングルの中へ放り投げた。
「これで文句はあるまい」
「いいわ。あなたも連れていってあげる」
 アグネスの瞳は優しいそれに戻っていた。アグネスに先導され高井と敷島は歩き出した。
「ところで敷島中尉はラバウル航空隊とのことでありますが、寺田新吉という男をご存知ですか?」
「寺田は私の部下だった」
「だった……。彼は死んだのですか?」
「いや、彼は生きていると思うよ。今頃、西部ニューギニアの山岳地帯へ向けて飛んでいるはずだ」
「西部ニューギニアの山岳地帯……」
 高井は寺田が持っていた「赤道の雪山」という本が頭に浮び、彼がいつも「ニューギニアの雪山を見たい」と言っていたことを思い出した。
「寺田は自分の親友です。彼はニューギニアの雪山を見に行ったのでしょうか?」
「ふふふ、その通りだよ。一応、私も彼も戦死したことになっている幽霊だ。寺田はまだ若い。こんなくだらない戦争の最中でも夢を持ち続けているんだ。それに少しばかり力を貸してやっても罪にはなるまい」
 敷島は不敵な笑みを浮かべていた。
(この男ならば信用できる)
 高井は直感的にそう思った。
 それから三人で歩き、どのくらいの日が上り、日が沈んだだろうか。
 ある朝、人の気配に三人は歩みを止めた。
「あっ、あれは……」
「やはりオーエン・スタンレー山脈を切り拓くオーストラリア軍よ。さあ、あなた達はあそこへ行くの」
 アグネスがオーストラリア軍の兵士を指差す。
「い、いやだ!」
 高井が首を横に振った。
「俺は賛成だ。このまま山中を彷徨ってはいずれは死ぬ。今は投降するしかない」
 敷島が高井の肩に手を置き、諭すように言った。
「アグネス、君はどうするんだ?」
 高井が振り返った時、アグネスの姿はもうなかった。
「男なら恥を忍んでも、耐え難い屈辱を受けても生き延びるんだ。こんなくだらない戦争を始めやがって……。俺たちは死んでいった奴らのためにも生き延びなければならないんだ」
「ううっ……」
 高井の両目から熱いものがこぼれた。
「さあ、行くぞ」
 敷島は高井の肩を抱きながら、オーストラリア軍の前へ躍り出た。
「ホールド!」
 オーストラリアの兵士が叫んだ。敷島は両手を挙げた。高井が続く。兵士は二人に近寄ると、武器がないことを確かめた。そして、銃を突きつけてきた。
 かくして高井と敷島は捕虜の身となったのだ。
 高井と敷島が連行されながら歩いていると、頭上に一羽の鳥が飛び去っていった。オレンジと赤が入り交ざった極彩色のその鳥は、数回頭上を旋回した。
「極楽鳥だ」
 敷島が唸るように言った。
「ゴクラクチョウ?」
「ああ、俺がいたニューブリテン島ではよく見られた鳥さ」
 敷島が笑った。ゴクラクチョウは二人の上を数回旋回すると、密林のジャングルへと消えた。
「するとアグネスは……」
 高井が生唾を飲み込んだ。敷島はただ微笑んでいた。二人は連行されながらもゴクラクチョウが消えた方向をいつまでも眺めていた。

 時は流れた。日本は敗戦という形で終戦を迎え、民主主義がアメリカより持ち込まれた。生き残った兵士は復員したが、高井と敷島は捕虜だったため、復員が遅れた。
 そして、高井のいた部隊はポートモレスビー目前の五十キロメートル付近まで進軍したが、行く手を連合軍に阻まれ、元来た道を引き返すという悲惨な進行を続けなければならなかった。既に食料も医療品も底を尽き、何万人といた兵士で生きて還ったのは数千人だったと言われる。兵士たちの死因のほとんどはマラリアと飢餓だったそうだ。
 戦後、ニューギニア島は東半分がパプアニューギニアとして独立し、西半分がイリアン・ジャヤと呼ばれるインドネシアの領土となった。
 高井と敷島は復員後、戦友会には所属していなかった。やはり捕虜になった後ろめたさがあったのだろう。終戦後まで「売国奴」と陰口を叩かれたくはなかった。高井は寺田を探したが、彼の姿はどこにもなかった。
 高井は復員後、建設業に従事した。そして、趣味として登山を始めたのだ。オーエン・スタンレー山脈の地獄のような進軍を思えば、日本の山はのどかなものだった。
 そして、高井の中にある野心が芽生えた。
「寺田がうわ言のように言っていた、ニューギニアの雪山を俺も登ってみたい!」
 高井は所属する山岳会にニューギニアの最高峰への登攀を提案した。カルステンツ・ピラミッドはこの時のインドネシア大統領の名にちなんでスカルノ峰と改名された。そのスカルノ峰への挑戦である。山岳会の中の五人ほどが名乗りを挙げてくれた。こうして高井のスカルノ峰挑戦は実現に向かって歩き出した。登山隊の面々はまだ見ぬ南国の雪山に思いを馳せていた。
作品名:南国の雪嶺 作家名:栗原 峰幸