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南国の雪嶺

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 寺田が見た山はカルステンツ山群と呼ばれる峰々であった。そこには万年雪が堆積され、氷河を形作っている。
「俺は見たぞ! 確かに見たぞ! 赤道直下にそびえる雪山を!」
 寺田は叫んだ。そして、操縦桿を操り、カルステンツの南壁に挑むように、機体を旋回させた。すると、上昇気流が零戦を捉えた。風に乗り、零戦は高度を上げた。寺田が飛び越えたのは正にカルステンツ・ピラミッドと呼ばれるニューギニア島の最高峰であった。その標高は当時、五〇三〇メートルと言われていた(現在では四八八四メートルであることが確認されている)。
 そして、その頂を越えた寺田は絶句する。カルステンツ・ピラミッドの北壁には真っ白な氷河が広がっていたのである。そして眼下には広大な盆地が広がっていた。
「俺は今、ハインリッヒと同じ風景を見ているんだ」
 出来ることならば、零戦を氷河に着陸させ、自分の足で赤道直下の氷河を踏みしめたかった寺田である。
 その直後、寺田は機体が大きく揺らぐのがわかった。乱気流である。
「くそっ……!」
 寺田は操縦桿を操り、カルステンツ・ピラミッド北壁の氷河に機体を近づけようとするが、雄々しくも厳しいカルステンツ山群はそれを許してはくれなかった。
「仕方がない……。このままでは山に激突してしまう……」
 寺田が北へ向かって機体を立て直そうと思った時、突風が零戦を煽った。
「くそーっ……!」
 まともに操縦ができる状況ではなかった。零戦は北風に煽られ、木の葉のように舞った。
 ガツンという衝撃が寺田を襲った。機体がカルステンツの峰に接触したのだ。しかし、幸いなことにかすった程度の胴体の接触であった。寺田は必死に操縦桿を操り、機体を立て直そうとする。だが、カルステンツの山々は冷たく、非情にも寺田の零戦を煽った。
「ここで死ぬわけにはいかない!」
 寺田はカルステンツ山群の南壁を這うように飛び、険しくそびえる山々を見上げた。そして山群の東側へ回り込むと、迂回路を探して飛んだ。シリンダーの音がまるで心臓の鼓動のようだった。吹き付ける乱気流のため高度を取れない零戦は、山群の東側に迂回路を見つけた。ちょうど、カルステンツ山群が切れたところだった。その谷間を零戦は飛びぬけた。幸いにもそこは乱気流の影響も少なく、零戦は再び息を吹き返した。高度をあげることが出来たのだ。
 寺田が振り返ると、カルステンツ山群の氷河が太陽に燦然と輝き、目が眩みそうになった。
「さらば、ニューギニアの雪山よ……」
 だが、ここで寺田は自分の犯したミスに気が付いた。先ほど、カルステンツの峰に機体を接触させた時、燃料タンクに穴が開いていたのだ。ガソリンは徐々に漏れ、霧となってニューギニアの上空に撒かれていった。
「くそっ、燃料が……!」
 燃料計がみるみるうちにエンプティーに近づいていく。
 寺田は戦闘機乗りの心構えを敷島から叩き込まれていた。それは「どんなに絶望的な状況に追い込まれても、決して飛ぶことを諦めるな」というものだった。
 零戦は高度を徐々に下げながらも飛び続けた。

 高井大作がラエからココダ基地へ進行し、更にオーエン・スタンレー山脈の中を彷徨ってどのくらい経っただろうか。高井は身体のだるさを覚え、進行する軍隊から遅れ気味となっていた。小銃を杖の代わりにするが、思うように脚が動かない。ついに高井は前のめりになって倒れこんだ。すぐに衛生兵が駆け寄った。
「そうか、マラリアか……」
 衛生兵からの報告を受けた桐山隊長が唸るように呟いた。
「自分を置いて、先に行ってください……」
 隊列の中にしばし緊張が走った。隊長は深く帽子を被りなおした。高井は死を覚悟していた。未開のジャングルの中を切り拓いていく己の部隊にとって、自分の存在が足手まといになることは十分すぎるほどわかっていた。隊長は帽子の下で苦悶の表情を浮かべていた。
「日本男児たるもの、いざという時は云々……」
 桐山はいつもそんなことを口走っていたが、本心はすべての隊員に生きて還れと願っているに違いなかった。だが、ニューギニアのジャングルは容赦なく隊員たちを襲ってきた。最も恐れられていたのはマラリアである。今までも何人もの隊員がマラリアで倒れていった。だが、倒れた隊員は生きることにしがみ付こうとはせず、自決する者も多かった。
「よし、全員出発!」
 桐山の号令で隊列が再び動き出した。桐山はそっと高井の元に乾パンを置いていった。
 隊列が去ってどのくらい経っただろうか。にわかに高井が起き上がった。乾パンを抱え、小銃を杖代わりにし、立ち上がったのだ。この時、高井は高熱にうなされていた。
「畜生……、負けてたまるか!」
 もはや高井の身体を動かす原動力は生への執着という気力のみであった。
 蟻のような速度で高井が歩く。目の前にはオーエン・スタンレー山脈が迫っていた。だが、どう考えても、今の高井に三千から四千メートル級の山を登る体力は残されてはいなかった。
 その日はクムシ川の源流部で日が暮れた。高井はその河原に身を横たえた。マラリアは夕方から夜にかけて熱が上がるのが特徴だ。高井はこのままこの河原で朽ち果てていく自分を想像した。
「ジャワ天国、ビルマ地獄、死んでも還れないニューギニア……か」
 自分がここで死んでも遺骨を引き揚げてくれる者などいないだろうと高井は考えた。
 その時であった。一人の女が高井の前に躍り出た。
「誰だ?」
 女は極彩色の服を見に纏っていた。見れば女の髪はオレンジ色だ。それは染めたようには見えなかった。そして、女は現地のポリネシアンでもなければ、白人でもなかった。
 女は高井の横でしゃがみこんだ。そして、言ったのである。
「その銃を捨てたら、あなたを助けてあげるわ」
 何故、女が日本語を喋ることが出来たのかはわからない。だが、女ははっきりとそう言ったのだ。高井は目を丸くした。
「本当に助けてくれるのか?」
 高井は藁にも縋る思いで女に尋ねた。女は無言で頷いた。高井は小銃も拳銃も女に渡した。高井はそれらを渡すのを躊躇ったつもりだった。卑しくも天皇陛下から授かった武器を手放すことより、丸腰になることを恐れたのである。それでも確かに高井は小銃と拳銃を女に手渡した。
 すると女は小銃と拳銃をクムシ川の中へ投げ込んだ。女は木の葉でコップを作るとクムシ川の水を汲んだ。そして、それを口に含むと口移しで高井へと飲ませた。
 それは美味い水だった。熱が出ていて喉も渇いていたのだろう。だが、理由はそれだけではなかった。
「もっと水をくれ……」
 高井の要求に女は何度も応じてくれた。高井は女に乾パンを差し出した。だが、女は笑ってそれを受け取ることを拒否したのだ。
 もう日はとっぷりと暮れていた。クムシ川のせせらぎの音だけが聞こえる。女は高井に寄り添うようにして寝た。

 翌朝、目が覚めると高井は予想以上に身体が軽いことに気付いた。
「おはよう」
 寄り添って寝ていた女が声を掛けてきた。
「ああ、おはよう。ところで君は一体何者なんだ?」
「私はアグネス。何者でもないわよ」
作品名:南国の雪嶺 作家名:栗原 峰幸