僕とメトロとお稲荷さま
逆児を孕んだお嫁さん この坂のぼればかわいい吾(あ)子(こ)が 待つと信じてひた走る
この鳥居 千本くぐればどこへも往ける ただただ問題そこじゃない 往けども往けどもお遍路さん 本当に終わりはあるのかえ?
誰彼? 黄昏 しょせん浮世は夢幻 ならばとびきり可笑しな夢を 観たならそれは勝ち組だ
くぐれくぐれ のぼれのぼれ 狐の坂道ひた走れ』
耳の奥から、童子(こども)たちの囃(はや)子(し)詞(うた)が聴こえてくる。なんだかいやに不気味な歌だけれど、不思議と力が湧いてくる。走れ走れ、上れ上れ、って。
『──生きる阿呆に死ぬ阿呆、同じ阿呆なら生きなきゃ損、損』
そう、歌が締めくくられると同時に、僕は最後の鳥居を抜けた。
世界が、変わった。
ガタンガタン、ガタンガタン。
振動が、足の下から伝わってくる。
キシ、キシ。
板張りの床は歩くたびに小気味いい声で鳴く。
通路側の座席には、真鍮でできた手すりが突きだす。いろんな人に触られて、ピカピカに磨かれて滑らかな手触りだった。
座席は、コットン生地が剥げて茶色の裸をさらしている。
旧い匂いで満ちた、古(こ)色(しよく)蒼(そう)然(ぜん)とした空間。
ここが……、
「過去へ往く……、《異界メトロ》」
車内はまさに伽(が)藍(らん)堂(どう)。僕という人間以外誰もいないセカイ。神のいないセカイ。いや、もしかしたら僕には視えないだけで、この空席の列には神様であふれているのかもしれない。あるいは……、
「……あるいはこの窓から広がるセカイそのものが、神だとでもいうのか」
左右の座席の横には、車窓が理路整然と並んでいる。けれど、そこに映るはずの景色は窓それぞれでまったくの別世界。
鎧武者が馬を駈ける合戦風景を映すものもあれば、空を飛ぶ大型プロペラ機から爆弾が落ちる空襲の様子を映した窓もある。あ、あれは黒船……なのか?
過去にあったであろう歴史の一欠片(ピース)。それらが窓に映っては消え映っては消えを繰り返す。──繰り返す? 違う、僕が観るかぎり、一度映した光景は、似たような場面はあったとしても、まったく同じものを映すことは一度としてない。
景色の中には、外国や、人間以外のものは一切ない。つまりこのメトロは人間の歴史、しかもロケーションも東京近辺のみの過去を遡るようだ。
そしてどうやら僕は、この限られた条件下での過去の風景から、『自分の降りたい過去』を探なければならないらしい。
「……本当にそんなコトが、できる、のか……?」
何百年何千年と積み上げられてきたその土地の人間の歴史。そんな止め処ない奔流の中で、つい十数分前の事故のなど、空中を飛沫する水滴にすら値しない。
それこそまさに刹那以下の桁、六(りっ)徳(とく)の下、空虚の隙間にして、那(な)由(ゆ)他(た)の果ての──天涯(はて)の地平。
漠然としていて、かつ渺(びよう)茫(ぼう)としていて、さらに形(けい)而(じ)下(か)にして形(けい)而(じ)上(じょう)。
まるでそれは地平の先まで続く砂漠の中から、たった一粒のダイヤを捜すに等しい行為。
今こうして答えのない思案を巡らせている最中にも、景色は移り変わっていく。
僕は愕然として目眩をもよおす。
無理だ。出来っこない。
「……はぁ、はぁ」
足がよろめき、とっさに手すりに掴まった。けれどそのまま立っているのが辛くなって、しなだれるように座席に腰をおろす。
すると尻から何やら聴きなれないクシャッ、という音が。
僕は恐る恐る座席と尻の間に手を入れる。
「────ッッ!!」
出てきた物を見て、思わず瞠目する。
「東京……メトロマップ」
それは、僕が命の代わりに掴み取った地下鉄の乗り換え案内の冊子だった。
くしゃくしゃのしわに加え、汗で湿ってよれよれだ。僕はこんな物のために、死んでしまったのだ。有耶無耶な感情が、冊子を握る手に力を込めさせる。
「確かにこれは、僕の命を奪ったモノだ」
けれどそれと同時に、今の僕の生と死をつなぐ唯一の接点でもある。
そっと、目をつむる。呼吸を整える。
そうして聴こえてくるのはそう、線路を走る電車の走行音だけ。あとは何もない。
何もないセカイ。
「ふぅー……」
一頻り落ち着いたところで、僕はすぐ横の窓に目をやる。
たかだか僕一人の許容量なんて、この車窓に映る風景のほんの一時。なら、それだけに集中すればいい。ただ、それだけを視ればいい。
ほら、そうすればさっそく。
片手で東京メトロマップを握りしめながら、もう片一方の手を窓へと伸ばす。
この手に先に、もう一つの東京メトロマップ。
過去と未来を、現実と非現実を、現(うつし)世(よ)と幽(かくり)世(よ)とを、
「くくりたまえ!」
────────────────────────────────。
────────────────。
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────。
背中が見える。僕の背中だ。道路の上で踊るボロ紙向かって、根限り腕を伸ばしている。すぐ数メートル隣に、大型トラックが迫っているとも知らないで。
僕はそれに怯まず、咄嗟に『僕』へと馳せる。
「え?」
肩を掴まれた『僕』が、間の抜けた顔で振り返る。
肉体は失ってはいても、同じ存在である僕らはある程度は干渉し合える。なんとなくだが、門をくぐり、《異界メトロ》へと至った僕には理解(わか)る。視えない世界の法則──内在秩序の一端に、僕は触れたのだ。
──同位体、一つになる?
──そうだ。
僕は『僕』に頷き返す。
そして────────────────────────────────────────────────はぁ、はぁ、はぁ、はぁ。
「おい、危ないだろ! どこに目ぇ付けて歩いてんだ!!」
路側帯に尻もちを付く僕に、トラックの運転手が凶相を露わに我鳴りつける。
なんで僕は道路になんて飛び出したんだ? あのまま行っていたら確実に死んでいたじゃないかっ!?
「んぁ?」
急に、視界が暗転する。顔の上に新聞か何かが飛んできたのだろう。すぐに手をやり取り退ける。
「これって」
それは、僕の持っていた『東京メトロマップ』。そうだ、僕は風に飛ばされたこれを追って、咄嗟に道路へとび出したんだった。
「──じゃあ、なんで助かったんだ?」
首を伝う汗を感じながら独りごちる。
「オニーチャンたら、ついさっきのコトなのにもうわすれてるよ~」
「しょうがないさ。今のおにーさんとって、ぼくらとの時間は過去であると同時に未来でもあるんだからさ」
不意に、子供たちの声が耳元を撫でる。暑い夏の一時に鳴る、涼やかな風鈴のような笑い声。
雑踏とした街の中でもはっきりと聴こえるその声を、僕は自然に追っていた。
そして視線は、道路を挟んで向かいにあるあの風変わりな神社でとまる。
何か後ろ髪を引かれるような、不思議な感覚が湧いてくる。僕は目を凝らして神社の中を見渡した。
「──!」
祠みたいに小さな本堂の前に、父から預かった日本酒と同じ銘柄が供えられている。僕はすぐさまボストンバッグの口を開ける。
「ない」
作品名:僕とメトロとお稲荷さま 作家名:山本ペチカ