カムイ
春まだ浅い頃、鈴は大きなお腹をかかえて、ひとりで厩舎の掃除をしていた。
セタエチは札幌にある学校に通う為に、文左衛門に頼んで同じ馬に一緒に乗り、江別まで連れて行ってもらっている。江別にある、鈴の実家から通う手はずを整えていた。
その家には現在、社長の座から下ろされた父親と、少数の使用人がいるだけである。
母親は、鈴が8歳の時に病で亡くなっている。
父親は、村下王国をこの北海道に創る、という夢を果たせないことを悟ってから、急に老けて言動が怪しくなり、錠の掛かった蔵の中で生活を送っている。自由に外に出て行かないように閉じ込められている、と言ったほうがよいだろう。
予定日まで、まだひと月近くある。初めての出産は、予定よりも遅れると聞いていた。
馬の寝床を整える藁を運び、飼い葉桶に飼料を入れている時に、馬の動きがよく見えていなかったこともあって、馬が上げた後ろ脚に蹴られて、倒れ込むように転んでしまった。
腹部を打ちつけてしまったようである。
すぐには動くことも出来ず四つん這いとなり、頭を垂れてゆっくりと深い呼吸を繰り返していたのだが、下腹部にじんわりとした痛みが生じてきた。
這うようにしてやっと柱のところまで行くと、それにしがみつきながら徐々に重い体を持ち上げていき、息を止めては痛みをやりすごして、なんとか立ち上がった。
休み休み膝に手をつきながら、立ち止まってはうつむいて深く呼吸をし、わずかの距離に時間をかけて、やっと小屋に戻ることが出来た。
囲炉裏には、絶えず湯か雑炊を掛けている。湯が沸騰して、その湯気が部屋を暖めていた。