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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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遠いかげろうの記憶

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 私は手を離した。感情の渦を鎮めるようにその手を胸に当てて、目を閉じた。
 いままでその存在さえ気づかなかった何かが、次第にまとまりをみせつつあるのがわかる。
 私の無意識は、すでにその目的がわかっているのだろう。しかし、それが何であるのかはいまだに私にはわからない。それはちょうど、試験のときに感じるもどかしさに似ていた。
 気づくと、私は走っていた。心が、もっと早くと急かすのだ。
 どれだけ走ったのかはわからない。あれほど騒いでいた心が急に静かになった。
 私は浜辺の道にいた。道幅は先ほどの港町とさほど変わりはないが、舗装はされていない。浜も砂浜とは言い難い、小石がいくつも転がっているものだった。
 色褪せた小舟が幾つも浜にあげられている。
 私はこのとき、辺りが急に黄色く見える気がした。ちょうど古い写真のあの色……。セピアというのだろうか。
 ふり返ると、山はもう見えなくなっていた。
 それにしても、人の気配のまったくない、静かすぎる光景だった。その気配どころか、生活の匂いそのものすら失われているようにさえ思える。
 しばらく沈黙を守っていた心が、再び騒ぎ出した。
「潮の香り……、そう……この香り……もうすぐ……あと少し……」
 もうすぐ?
 あと少し?
 …何が……?
 どこ?
 理解し難い感情が、次から次へとあふれてくる。
 気がつくと、私は駅の前に立っていた。潮風に吹きさらされ、白く潮を吹いたような古ぼけた小さな木造の駅……。
 駅名は…読み取れなかった。錆びついた鉄板が、申し訳なさそうに庇の上についている。
 胸の高鳴りは、もうおさまっていた。
 私は一歩、駅の中へ踏み入れた。
 そして、また一歩……。
 薄汚れた天井から吊された、傘のついた電球がもの寂しい。
 使い込まれて真っ黒になった木のベンチや、くすんだ窓ガラス。どれもが永い時の流れのなかに置き忘れられたかのように、ひっそりとしている。
「…すみません……」
 切符賣場とガラスに白地に書かれた窓口で、駅員を呼ぶ。
 こんな駅に人がいるはずがないとは思うのだが、奥でやかんがしゅんしゅん鳴る音が聞こえる。
「すみません……」
 私はもう一度、さっきよりは少し大きめの声で呼んでみた。やはり返事はなかった。
 どうやら駅員は不在か、居眠りでもしているようだ。
 私は改札口の向こうを眺めやった。赤錆びた大きな広告板が並んでいる。
 そっと改札口を抜ける。
 構内は殺伐としていて、規模の割には意外なほど広く思われた。列車は行ったばかりなのか、それともいつもこうなのか、誰もいない。軌間の狭いレールだけが彼方まで続いている。
 かすかな風に、草がさわさわと音を立てる。
 空はすでに、たそがれの鮮やかさを失っていた。
 視線を戻すと、低いプラットホームに突き出た庇の下に、ひとつだけここには不釣り合いな新しげな青いベンチがあった。セピアの、モノクロームに近い光景のなかで、そこだけがさながら異空間のように思われた。
 私は何の気の迷いもなく、そこに腰を下ろした。
 風が、小さく髪を揺らす。
「時間が停まっているわけじゃないんだ……」
 まあ、当然のことだろうけど、と心の裡で付け加えて小さくため息をつく。
 目を閉じると、私の心はまるで宙にでも浮いたように自由な、そして限りなく優しい気持ちになった。
 そのまま眠りに落ちてしまいそうな、それでいて覚醒に支配された時間。
 とても懐かしい、自分でも上手く言葉で表すことのできない感覚……。
――帰ってきた……――
 心の中で、もう一人の私が吐息のように呟いた。
 ここが、いったい何だというのだろう? とても懐かしい気がする。
『来る……』
 私の意識を雷霆のように何かが貫いた。
 何が……?
 いったい何が……?
 私は不安になって、目を開けた。
 それはさきほどまでと何ら変わりはない光景でありながら、まったく違ったもののように思われた。
 風すらなく、鼓動だけが響く。
 どこが……。私は目をこらすというより、神経を集中させた。
――そう! ホームの端!――
 私はプラットホームの端へと視線を移した。
 そこには……

 そこには、かげろうのようにゆらめく光景の中に、一人の青年の姿があった。逆光のために表情まではわからないものの、まるで私に向かって微笑んでいるようだった。
 「…誰……?」
 私は辛うじて自分にも聞こえるか聞こえないかというほどの小声でつぶやいた。
 私は、その人影をじっと見つめながら動かなかった。いや、動けなかったのだ。
 膝に置いた手に、滴が一粒はじける。
…私…泣いてるんだ……
 まるで人ごとのように、落ち着いて思った。
『私の…知ってる人……?』
――そう、……幼いころ……――
『幼いって、どれくらい……?』
――私の知らないくらいに幼いころ……――
『でも、この涙は……?』
 私は立ち上がった。
――さあ、おかえり……――
――……あなたには待ってるひとが……――
 胸の裡で、一度にいろいろな言葉と記憶が交錯する。
 私はそのまま、青年の胸に飛び込んだ。
――帰って来た……――
「そう、帰って来た……」
 青年の手が、私の肩に置かれた。
 顔を上げる。懐かしい顔……。
 そう…あのとき……。
「思い出したんだね」
 優しい声が、耳の奥で響く。
 もう彼は、影などではなかった。
 彼は優しく私を抱き、そして静かに語りかけてきた。
――暖かい……――
 私はゆっくりとうなずいた。
「あのときの……」
 今度は彼がうなずいた。
 ふたりの私がひとつになり、私はすべてを思い出した。現在の私につながるすべての過去を。過ぎ去った遠い日の出来事を。
 そして、思い出そうとしても思い出せなかった記憶の空白の部分を……。
「覚えていてくれたんだね……」
「……!」
 私は涙で潤んだ瞳で彼を見上げた。
 これまでにないほど素直な気持ちだった。
 彼は、私のすべてを肯定してくれていた。
「あのときの私は、あまりにもわがままだった……」
 彼は一瞬、ひどくまじめな顔つきをした。
「あのときの君は、まだ小さすぎたじゃないか」
「でも……」
 私が何か言おうとするのを、彼はさえぎった。
「いいんだよ……」
「…ごめんなさい……」
 涙が頬を伝い落ちる。
 彼は優しく、その涙を潮風から守ってくれた。
 ……私は甘えるだけ……ただ甘えるだけ……。あのころもそうだった……。私は彼の優しさに甘えるだけだった……
「ごめんなさい……」
 私はまた、繰り返した。
「…もう、何も言わなくていい……」
「……」
 まわりのすべてが静寂だった。風も、潮騒。鳥の鳴き声ももはやない。
「…ずっと、…待っていてくれたの……?」
 果てしない沈黙の中で、彼の声は独特の響きをもって伝えられた。
「約束したじゃないか……」
 それから彼は、かすかに微笑んで続けた。「だから、君もここへ来た」
「この青いベンチで……」
 あのとき、私は確かに約束したのだ。私の幼いころ、私自身も知らなかった、はるかな記憶……。ふたりは確かに約束したのだった。

 駅のホームだった。
『お兄ちゃん! 行っちゃうの?』