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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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遠いかげろうの記憶

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 疲れているんだ。それが、どっと噴き出してきたに違いない。あるいは、こういうのを『デジャヴ』とでもいうのだろうか……。
 それにしても、ずいぶんと長い時間が過ぎているはずなのに、かえって時間が逆戻りしているように思えるのは、どうしてなのだろう。ここは、時の逆行を感じさせる独特の何かを持ち合わせているのだろうか……。それらがきっと、私にいろいろなことを考えさせる原因と時間を与えているに違いない。
 ここにあるものはどれもこれもひと昔、いや、それ以上に古いものばかりなのだ。建物も、道も、小高い丘の上の神社や港、そして人々や陽の光さえも、人の心がまだ暖かだった時代のまま滞っているような町なのだ。
 すべてがあの懐かしい日々そのまま、あのころのまま残っている。私の胸の裡でそれらが溶け込み、そのころを彷彿とさせる。
『あのころ……』
 なんだか、とても懐かしい気持ちになった。
「あのころかぁ……」
 私は幾度となく「あのころ」と呟いていた。
「あのころ?」
 あのころって、いつ?
 あのころって、どれくらい前のこと?
 私はこの港町の家並み、そして様々な光景を私の肖像と重ね合わせてみた。
 しっくりくるわけがない。少なくとも三十年以上前の光景なのだ。それらは古い写真などで見たことはあっても、神社の石段にも細い路地裏にも、人間臭い、使い古されたもの独特の雰囲気が漂っている。
 いくら友人に時代遅れと言われているとしても、それらが私に見合うわけがないのだ。また、決してそうであってはならないはずなのだ。
 そもそも、まだ十九歳の私にとって、あのころと言って懐かしむほどの過去が果たしてあるのだろうか。
 それにしても、ここへ来てからの私は、どこかおかしい。妙なことを口走ってみたり、それに……ずっと私を包み込んでいるような、この懐かしさは何?
 私の心の奥をかき回すような風、潮騒、そしてすべての物音……。
 私の知らない、本当の私……。はたして、そんなものが実際にあるのだろうか。それともここは、ここを訪れる旅人の心に何らかの影を落とし、そして憂いや優しさというものを喚起させる“心のふるさと”というものなのだろうか。
 何だか、それでもないような気がする。
 私の心に浸透して……そう、なにか他のものになる……。それとも私自身が成長する過程の、ほんのちょっとした気の迷いから起こったものなのだろうか……。
 わからない……。わかるはずがない……。
 普段、滅多に使うことのないような言葉が、私の胸の奥から湧きだしてくる。
「……」
 言葉にならない感情が、不意に私の思考を麻痺させた。そして、すべての言葉を使い切ってしまったかのように呆然としていた。

 私の意識を引き戻したのは、手に触れた何か生温かいものの感触だった。
 おもむろに視線をそちらへ向けると、茶色いぬいぐるみのような仔犬が、舌を出してしきりに尾を振っていた。
「どうしたの?」
 私は仔犬に話しかけた。顔を近づけると、仔犬は跳びあがるようにしてその可愛らしい舌で、化粧っ気のない私の顔を舐めまわす。
「どうして、こんなところへ来たの?」
 仔犬に対する問いとしてはかなり変だと気づいたとき、私は少しぞっとした。
「おいで」と手を拡げて見せると喜んで飛び込んできた仔犬は今、私に抱き抱えられて満足げに鼻をふんふんいわせている。
「どうして、私のところへ来たの?」
 膝の上で眠そうにしている仔犬の背を撫でながら、そっと聞いてみた。仔犬は怪訝そうに私の目を、そのつぶらな瞳でのぞき返す。
 仔犬の瞳には、私の顔が映っていた。
 暖かい陽光が降り注ぐ中、私は歌を口ずさみ、仔犬は寝息をたてている。絵本の一コマのようなうららかな昼下がり……。私は遠くへ視線を投げた。青い空にちぎれた雲がかたちを変えながら、ゆっくりと移ろってゆく。
 仔犬はどこかで飼われているのだろう、赤い首輪をしていた。
 私はそっと、仔犬を膝から下ろした。
「さぁ、もうおかえり。あなたには待っているひとがいるのよ」
 仔犬は首をかしげて私の顔をのぞき込む。
「さあ……。心配をかけちゃだめ。早く帰って安心させておあげ……」
 私がその頭をひと撫でしてやると、小さな脚をせわしく動かして、漁船の並んだ向こう側に消えてしまった。
 私はまた、ひとりになった。
 吹いてくる風が、少し冷たくなったような気がした。
 ……やがて、それも止まった。
「夕凪……」
 私の口から、低く言葉がもれる。
 静かな……さざ波の響きだけが、私の耳に流れ込む唯一の時の脈動だった。そのかすかな水の跳ねる音は、やがて意味を持った言葉として私の心に響いた。
『どうしたの?』
「どうもしていない……。何がどうしたっていうの……?」
『どうして、こんなところへ来たの?』
「どうしてって言うほどの理由なんてない。ただ、ひとりになりたかっただけ……」
『…おいで…』
「どこへ……?」
『さあ、もうおかえり。あなたには待っているひとがいるのよ……』
 私はどこからともなく聞こえてくる声と話しているようだった。
「あなたは…誰……?」
 返事はない。当然だった。
 それは、あの仔犬に話しかけた私の言葉そのままなのだった。
 その時、私ははじめてあの仔犬に対する言葉の意味がわかった。
 鏡のような瞳、鏡のような海……。私の言葉が反射して、私のもとへ戻ってくる。
 私はあのとき、仔犬を通して自分自身に話しかけていたのだ。私は、私の中でもうひとりの自分がひとり歩きを始めるのを感じた。
『さあ、心配をかけちゃだめ。早く帰って安心させておあげ……』
「私…行かなきゃ……」
 私は、ずっと掛けていたコンクリートの防波堤から腰を上げた。
 辺りを見回す。そして、二、三歩防波堤の突端に向かって歩いてみる。
 ……でも、どこへ?……
 また立ち止まる。
 どこへ行くというの……?
 どこかへ行く目的でもあるのか。
 ない。
 なにもない……。
 最初から、目的など何もない旅だったのだ。目的などあるはずがない。
 いまさら、どこへ行こうというのか。
 でも……この妙な胸騒ぎは……?
 行かなきゃ……。でも、なにをしに……?
 私は耳を澄ませた。さっきの声が、もう一度聞こえはしないかと。
 しかし、胸がいたずらに高鳴るだけだった。
 私はいつの間にか踵を返して防波堤の付け根まで駆け出していた。
「待っている……」
 駆けた拍子に、高鳴る胸から言葉がこぼれ出た。
「行くの……?」
 自分自身に問いかける。
 返事があるはずもない。
 低い防潮堤のところで一旦立ち止まった。
 それもほんの短い間だけのことで、私は港を離れて歩き出す。何の目的もなく、心に任せるままに。
 私は同時に、記憶の底へと歩を進めているようでもあった。
 海に沿って、神社のある小高い山を回り込む。西向きの石段の上で、鳥居が赤みを帯びて輝いている。目を細めて、何かに取りつかれでもしたかのように、しばらくそこに立ちつくしていた。
 石垣に手を触れてみる。懐かしい感触が手のひらを通して全身に広がった。コンクリートやアスファルトにはないなにかが、私の中に怒濤のように押し寄せてくる。