リ・メンバー
ぼくは、特に夢はないけれど絵を描くのだけは好き、と言った。初めて絵の話を人にした。
「どんな絵?」
「勉強をしたことはないし、ただ本を見たり、自分で思ったりしたままに描くんです。外国の庭園が好きみたいで、庭園のデザイン画みたいなやつ」
とぼくは曖昧に答えた。だって自分のためだけに描いているのだから。
ところがユリさんは絵が見たいと言うのだ。あまり真剣に言うので次の週の公園掃除のとき、今まで書き溜めた絵を30枚くらい持っていって見せた。ユリさんはそれを1枚1枚丁寧にじっくり見てくれた。
ぼくは恥ずかしかった。小学校のときのトラウマがよみがえってきそうだった。
ところがユリさんの反応は違った。
「悟飯、うまいなあ。今まで誰かに見せたことある?」
「ないけど・・・そんな、人に見せるほどのものじゃないです」
「ふふ。いいものを見せてもらったな。ありがとうね」
とユリさんは言った。
ぼくの方こそありがとう、だ。ぼくの描いた絵をユリさんがちゃんと見てくれたことが嬉しかった。
あと少しでユリさんが故郷に帰るという土曜日、ぼくはユリさんに、会わせたい人がいるから出ていらっしゃいと呼び出された。デザイン画を持ってくるように、と言う。
本当に久しぶりにものすごい人ごみの中に出た。お母さんが驚いた顔をしていたけれど、すぐ帰るから、とだけ言った。外は寒いのにガラス窓から入る日差しはすっかり暖かかった。言われた喫茶店に入って待っていると、ユリさんが男の人と入ってきて、ぼくに言った。
「紹介するね。ノボルさん。悟飯に話したこと、なかったかな?わたしは英語の講師なんだけど翻訳もしていて、ノボルさんは仕事上のクライアントさん。英国風庭園を持っていて、デザイナーでもあるの。悟飯のことを言ったらデザイン画を見たいって言ってくれて・・・」
その人はゆったりした雰囲気で、いつも目元がニコニコしているような男の人だった。ぼくのデザイン画をユリさんと同じようにじっくり見ながら言った。
「ほう、うまいね。あなたは植物のことを勉強したことがあるの?」
「いいえ、ないです。だから花の名前とかも知らないし、写真集を見ながら、ただ何となくこの花とこの花を隣り合わせにしたらすごくいいかな、とか・・・庭も頭の中で浮かぶのをただ描いています」
男の人は頷きながら聞いてくれて、そしてぼくに言った。
「ぼくの庭園で働いてみないか?造園師見習いとして植物に触れながら、植物の勉強をしたらどうだろう」
ぼくはびっくりした。なんにも考えずにただ描いてきただけだから、こんな話をもらうなんて想像をはるかに超えていた。
「1週間くらいのうちに返事をもらえるといいけれど」
とノボルさんは言う。
「ぼく、高校出ていないです」
「高校?全然構わないよ」
「悟飯、自分のことだからじっくり考えてね」
ユリさんもそう言ってくれた。
夢心地のような状態で家に帰った。途中の景色は何も覚えていなかった。帰るとお母さんがいた。
お母さんの顔を見たとたん、ぼくは、
「庭園で造園師見習いとして働くことにしたから」
と言っていた。
いつそんな決心をしたのかと自分でもびっくりするくらい、もうこころは決まっていたのだ。
「庭園?庭いじりもしたことがないあなたには無理でしょ」
お母さんはそう言った。無理・・・小さい頃からずっと聞かされてきた言葉だけれど、このときはぼくの中に入ってこなくてすっと通り過ぎていった。生まれて初めて。
お父さんが帰ってから、ぼくは今日会ったノボルさんのことを両親に話した。ノボルさんが持っている英国風庭園のパンフレットももらっていたので見せた。これがなかったら誰も信用してくれなかったと思う。
「本気なんだな?」
とお父さんは言った。ぼくは頷いた。
驚いたことにお父さんが、頑張れよ、と言ってくれたのだ。
ぼくはノボルさんが持っている2つの庭園のうち静岡県の方、富士山の麓にある庭園に行くように言われた。家を離れてひとり暮らしをすることになる。そのことも楽しみに思えた。
それに自動車の免許を取っておくようにとノボルさんに言われたので、急に忙しくなった。お父さんが教習所の費用を全部出してくれた。
免許がようやく取れた頃、ぼくは少しの着替えだけ持って引っ越した。お父さんに、お金を貯めて運転免許の費用は返すから、と言うと、お父さんは笑いながら、わかった、と言った。
お母さんはぼくの就職にこの日までずっと反対していた。じゃ、行ってくるね、と言っても黙って下を向いていた。
お父さんがそっと、お母さんは寂しいだけだから大丈夫、とぼくに言った。休みが取れたら帰って元気な顔を見せよう、とぼくは思った。
ぼくが住むのは、庭園のすぐ近くにある家の離れだ。大家さんは平井さんという。それもノボルさんがぼくのために準備していてくれた。
大家さんは留学生を受け入れていたことが何度もあるそうだ。とても気さくで優しい感じがする。たとえば、たまに会うだけなのに毎日会ってるみたいな雰囲気の人。
ぼくは慣れないながらも自炊を始めたが、大家さんはいろいろ教えてくれる。それにいつもあたたかい感じで、ぼくの仕事の話もにこにこしながら聞いてくれる。
ぼくも男手が入用なときは手伝いをするようになった。といっても電球を替えたり、重いものを持ったり、そんなことだけれど。
仕事は初めてのことばかり。よく怒られたりもするけれど、全然いやな気持が残らない。
植物にも土にも不思議な力があるのをぼくは知り始めている。土はなんでも受け止めてくれているような気がする。
ノボルさんは長野とここの庭園を行ったり来たりしているし、本当に忙しいらしくて、ぼくもときどきしか見かけないけれど、顔を合わせると必ず声を掛けてくれる。それに事務所にあるデザインの本や写真集などはぼくがいつでも見てもいいようにしてくれた。
庭仕事の指導は、冗談が三度の飯より好き、という28歳のイギリス人だ。そしてぼくのような日本人スタッフが7人くらいいる。
ピーターは日本に来てまだ3年ということだけれど、ずいぶん日本語がうまいし日本のこともよく知っている。
ガーデンの仕事をしながら、
「男タルモノ、花になど見とれていてよいのか。しかし男タルモノ、花の美しさもわからず女の美しさを語るな」
なんて言うので、みんながびっくりすると、
「星野富弘さんの詩だよー。かっこいい言葉でしょう」
だって。ぼくたちはますますびっくりする。
ぼくがひとり暮らしに慣れた頃、ピーターがぼくの下宿までついてきた。暇だからさ、と彼は言った。ちょうど大家さんがいらなくなった椅子とテーブルを物置に運ぼうとしていた。ぼくも、背が高くて力持ちのピーターも手伝いをした。大家さんはすごく喜んで、ハンバーグを作ってくれた。
ピーターと3人で食べたハンバーグはすごく旨かった。ピーターとも今までよりもっと仲良くなることができて嬉しかった。