私を泣かせてください
水木はややもすると小走りで自分の机に戻った。隣の席、そう幸三の机が妙に寂れて見える水木だった。
「いいじゃない、これ」
水木は自分の耳を疑った。確かに由美子は今、「いいじゃない、これ」と言ったはずだ。
「浅草の魅力がよく書けているわ。私の方で『て、に、を、は』は直しておくからフォーマットをメールで頂戴。これ読むとみんな『どぜう』を食べて、『電気ブラン』を飲みたくなるわよ」
編集部員たちが一同に顔を見合わせた。水木の口元が少し緩んだ。水木はそっと幸三の机を見た。そこにはまだ書類が積まれたままだ。
(先輩、早く戻ってきてくださいよ……)
幸三は受診の日、少し早めに病院へ行って診察券を出していた。由美子はまだ来ていなかった。心療内科はいわゆる「三分診療」で済まないことも多く、予約をしても時間通りに診察の順番が回ってこないことが多い。だから、幸三は早めに診察券を出しておいたのだ。
幸三はヘッドフォンステレオで鈴木慶江の「私を泣かせてください」を聴いていた。その曲だけリピート再生にして何度でも聴く。すると、自然に涙腺が緩んでくる幸三だった。
そんな幸三の肩をポンと叩く者がいた。幸三が振り返ってみると、そこに由美子が立っていた。幸三は目頭を押さえながら、由美子に会釈した。
「ちょっと、何聴いているのよ」
「ヘンデルです。この前話した『私を泣かせてください』です」
「ちょっと、私にも聴かせてよ」
幸三がヘッドフォンを差し出す。由美子はそれを耳に挿した。
「……!」
由美子が呆然とする。
「これ、誰が歌っているの?」
「鈴木慶江っていうオペラ歌手です」
「綺麗な声。それに何なの、この心に迫るメロディは……」
由美子の瞳が潤んでいた。先ほどまで「私を泣かせてください」を聴いていた幸三の瞳もまた潤んでいる。心療内科の待合で目を潤ませた男女が座り合わせていたら、それなりのわけありともとれるだろう。だが、他の患者は無関心を装っている。
「私もいろいろあってね。こんな曲聴かされたら涙が出ちゃうわ」
幸三は由美子も自分と同じ感性を持ち合わせていることに少し驚いていた。
「重田さん、中にお入りください」
米倉医師のアナウンスで、由美子がヘッドフォンを耳から引き抜いた。
「今日はよろしくお願いします」
幸三が改まって、由美子に頭を下げた。
作品名:私を泣かせてください 作家名:栗原 峰幸