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天つみ空に・其の八~恋月夜~【最終章】

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 お逸は楼主甚佐から呼ばれた。
 一階の楼主部屋に赴くと、甚佐はいつものようにお気に入りの煙管をゆっくりくゆらせていた。
「熱が出たとか聞いたが、具合はどうかね」
 二晩続けて清五郎から荒淫を受けた挙げ句、お逸は三日めの朝には熱を出して寝込んだ。
 清五郎が使ったあの媚薬が原因であることは明らかだった。後でおしがから聞いたところによれば、あの媚薬の効果は絶大で、殊に酒と一緒に服用すれば、更に効き目が増すという。
 清五郎はそれを熟知していて、わざとあの薬を酒に混ぜて飲ませたのだ。昨夜、お逸は清五郎の腕の中で、乱れに乱れた。幾ら媚薬を使われてたとはいえ、あれでは烈しすぎるような気がすると、お逸は暗澹とした想いに囚われていた。
 殊に、清五郎に強要され、自分は淫乱な女なのだとあの男の腕の中で言わされたことは耐え難い屈辱となって、お逸の身体だけでなく心までをも責め苛んでいる。
 痴態の限りを見せたお逸を見下ろしていた清五郎の眼はどこまでも冷たく醒めていて、暗い愉悦を宿していた。
 昨夜の出来事で、お逸の中からわずかに残っていた清五郎への気持ちも一切失われていた。たとえ、今の清五郎はどうあれ、昔は幼いお逸を妹のように可愛がってくれた優しいひとだったと思っていたのだ。
 甚佐は身体の調子はどうかと訊ねてはくれるけれど、けして、お逸の身体を気遣ってのことではない。大切な商売道具が早々と傷ついたり、病になったりでもしたら大変だと用心しているだけにすぎない。
「大丈夫です。まだ少し熱がありますが、朝よりは楽になりました」
 お逸が感情のこもらぬ声で応えると、甚佐は満足げに頷いた。
「それは重畳、折角上客がついたというのに、その早々、お相手ができないというのでは、客に逃げられてしまうからね」
 甚佐の無遠慮な視線がお逸に向けられていた。
「だが、そんな心配も無用になった。こうしてみると、お前は本当に美しい。水揚げを済ませる前も美しかったが、伊勢屋の旦那と夜を過ごすようなってから、更に美しさに磨きがかかった。このままここにいれば、冗談ではなく松風にも劣らぬ花魁になったろうが」
 甚佐の眼が光った。
「佳乃、お前の身請話が決まった。実は、伊勢屋の旦那から今宵も登楼するから、お前に他の客は取らさないで欲しいと言い渡されてね」
 今宵もまたしてもあのような無体な扱いを受けるのか―。お逸が暗い想いに陥った時、意外な言葉がお逸の耳を打った。
「伊勢屋の旦那は確かに上客には違えねえが、ここは廓だ。そういつまでもお前に一人の客の相手だけをさせているわけにはゆかねえ。儂はそうはっきりと旦那に申し上げたんだが、旦那はどうでも承知しねえのよ。それで、儂は冗談半分で言ってやった」
―そんなに佳乃がお気に入ったというのなら、いっそのこと、身請けなさっちゃア、いかがです? 伊勢屋の旦那さまほどの財力をお持ちなら、たがだか女郎の一人、二人、身請けするのは容易いことでございましょう。落籍して、手活けの花となされば、もう誰に何を言われることなく、佳乃は旦那さまのものになりますがね。
 まさか、そのほんの思いつきの科白に、伊勢屋清五郎が即座に乗ってくるとは流石の甚佐も想像だにしなかったのだ。
 清五郎は二つ返事で身請話を了承、甚佐が出した条件もあっさりと呑んだ。甚佐は佳乃―お逸を花魁として売り出すつもりでいた。むろん、松風なき後の穴を新しい花魁で埋める算段である。
 そのこともあって、甚佐はかなりの身請料を提示してみせたのだが、清五郎はそれもすんなりと呑み、話は呆気ないほど容易くまとまった。
「正直、今、お前を手放すのは惜しい。お前にはまだまだ稼いで貰うつもりだったからな。しかし、伊勢屋の旦那はお前に相当ご執心の様子、幾ら吹っかけたとしても、首を縦に振りなすったに違えねえ。そうとなれば、こちとらもお前をあくまで手放さねえとも言えやしねえし、伊勢屋ほどの大物にここらで恩を売っておくのも後々、うちの見世の損にはなるまいと、儂はそう踏んだ。そういうわけで、松風に勝るとも劣らねえ不世出の花魁として、お前を売り出す儂の夢も露と消えた。マ、お前には願ったりの玉の輿じゃねえか。あの旦那、お前に随分と血迷ってる風だから、大人しくしていれば、せいぜい可愛がってくれるんじゃねえのか」
 甚佐は、既にお逸を娼妓として働かせ続けることについては諦め、割り切っているようだった。それにしても、何とも切り替えの早いことだろう。甚佐は、お逸がわざと醜い娘のふりを装っていると知りながら、しばらくは見て見ぬふりをして泳がせていた。そこまでの用意周到さでお逸を娼妓に仕立て上げ見世に出したというのに、今度はあっさりと手のひらを返すように伊勢屋清五郎に売り飛ばすという―。
 甚佐の頭の中では、もう次にどの妓が使えそうかを色々と算段し、めまぐるしく己れの損得を勘定しているに違いない。その変わり身の速さはまさに鮮やかというか、呆れるほどであったけれど、これだけの見世の主ともなれば、それだけ思考の切り替えが早くなければ、やってはゆけないのだろう。
 甚佐は甚佐なりのやり方で、女郎屋の主人として二十年の星霜を切り抜けてきたに違いないのだから。

 甚佐の部屋を出て、お逸は力ない脚取りで階段を上がった。真吉にここで別れを告げたのは、まだほんの昨日のことなのに、あれから随分と長い年月が経ったような気がするのは何故だろう。
 二階の部屋に帰ると、清五郎から届けられたという品々が整然と飾られていた。まずは絹で仕立てた五つ重ねの夜具、桐箪笥ふた棹、大きな鏡台、三面鏡、眼にもあやな西陣帯、きらびやかな打掛が二枚。いずれもが贅を凝らした逸品ばかりであった。
 打掛は衣桁に掛けた状態で並べてある。まるで今にも飛翔しようとする鳥が羽をひろげたように見える打掛はこの季節にふわさしく、破れ垣に垂れ桜の模様が金糸、銀糸で縫い取られ、更に金箔などを使って型押しした豪奢なものだ。
 隣に並んでいるのは、垂れ桜に扇面が散った柄が段違いに染め分けられた布の上に並ん
でいる。銘は〝段に垂れ桜扇散し文唐織〟。
 どちらもが江戸でも一、二といわれる伊勢屋の主人でしかできない金にあかせた豪奢極まりないものであった。
 練り絹の五つ重ねの夜具も最高級品だし、鏡台、桐箪笥などに至るまで江戸の一流の店、職人で誂えさせたものだ。まさに、将来、お職を張る花魁になることを約束された新造の突き出しの祝いにふさわしい贈物である。
―私は他の男にお前を抱かせるつもりはない。
 今朝、まだ夜明け前に帰っていった清五郎は帰り際、そのような言葉を残した。
 お逸に自分以外の客を取らせるなとの甚佐への言葉は、それを受けての注文に違いないが、よもや、こんな形でそれが実現するとは考えもしていなかったお逸であった。
 現在、伊勢屋は内儀の不在を病のため、近在の温泉地で静養中と世間に言い繕っている。伊勢屋ほどの大店であれば、迎えたばかりの内儀―しかも十五も年下の若い女房に逃げられたとは到底言えない。店の暖簾にも清五郎の体面にも傷が付く。それゆえ、病気療養中などと苦しい一時逃れの言い訳を考え出したわけだ。