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天つみ空に・其の七~恋月夜~【最終章】

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 お逸はといえば、おしがの憐れみと労りのこもったまなざしにも気付かず、ボウとあらぬ方を見つめていた。下半身の痛みだけではなく、身体全体を言いようのない倦怠感が包んでいる。このまま倒れ込んで眠ってしまいたいほど、心身共に疲れ果てていた。
 と、おしがが懐から何かを取り出した。
 そっと差し出されたのは、小さな小さな一つの実―。
 もう干からびて、茶色く変色してしまっているけれど、それは確かに何かの実のようであった。
「これは何の実ですか?」
 ふと興味を誘われて訊ねると、おしがが微笑んだ。
「風船蔓(ふうせんかずら)だよ」
「風船蔓?」
 お逸は眼を見開く。風船蔓ならば、お逸も見たことがある。父が丹精していた肥前屋の庭にも風船蔓があった。つる植物で、朝顔のように伸びてゆく蔓と紙風船形の果実が眼を愉しませてくれる。夏頃、純白の四弁の花を咲かせ、その花がまだ可憐で愛らしいこと、この上ない。
 夏になると、お逸はこの白い花を見るのが愉しみだった。
「あたしも昔は、人並に親だったこともあってね。こう見えても、倅が一人いたんだ。その倅のたった一つの想い出がこれさ」
 おしがは遠い眼になった。
「この花、夏になると実がなるだろ。その形が紙風船に似ててさ。倅の奴、その実を割っちゃア、歓んでたっけ。これはたった一つだけ、割らないで大切に持ってたのをあたしにくれたんだよ。あたしが吉原に来るその日に、倅が泣きながら渡してくれた―。もっとも、幾ら後生大切にしたって、秋口になれば、実は茶色く色変わりしてしまうけどさ。それでも大切に宝物のように持っていたのが、おかしくて。子どもっていうのは、何で大人から見たら、あんなに他愛もないと思うようなものを後生大切に持ってるのかねえ」
 おしががふふ、と声を立てて笑う。
「ま、子どもったって、生きてれば、お前の父親ほどの歳さ。もっとも、もう大方、生きちゃいないだろうけどねえ。あんなろくでなしの父親に育てられたら、ろくな大人にはなれやしないよ」
 おしがにはその昔、腕の良い大工だった亭主と、その亭主との間に息子が一人いた。おしがは亭主に売り飛ばされ、苦界に入ることになったのだ。その話を、お逸は女中仲間のおくみから聞いたことがある。
 おしがの昔話に、お逸も微笑んだ。
「私も子どもの頃、似たようなことをして遊んだことがあります。風船蔓の実は押すと、音がするので、それが面白くって、つい同じことばかりやっていました」
 風船蔓の実は割る時、ポンと音がするので、子どもが歓ぶ。お逸も五、六歳の頃、よく庭の風船蔓の実を割って遊んだ。
 あの頃、父はまだ元気で、無邪気に実を割って歓ぶお逸を笑いながら見つめていて。
 お逸は父に守られ、まだこの世の何の辛さも哀しみも知らず、幸せだった。
―おとっつぁん、どうして、私を一人残して逝っちまったの?
 心の中で亡き父に呼びかける。
 私も一緒に連れていってくれれば良かったのに。そうすれば、こんな哀しい、死ぬよりも辛い目に遭うこともなかったのに。
 お逸が哀しみに沈んでいると、おしがの声が耳を打った。
「これをお前にやろう」
「え―」
 お逸が弾かれたように顔を上げる。
 おしがの眼とお逸の眼が合う。
 その眼は、お逸がこれまでに見たことのない真摯なものだった。
「あたしのお守りのようなもんだよ。何かのまじない程度にはなるかもしれない。男運はなかったけど、これでも運は強いほうだからね、あたしは。こう見えて、年季明けまで、無事に努め上げた身だ。お前もあたしのようにしぶとく息長くおやり」
「でも、そんな大切なものを頂くわけにはいきません」
 お逸が慌てて首を振ると、おしがが笑った。
「良いんだよ、あたしはもう十分、これに励まして貰った。今度は、誰かがこれを見て―息子の大切にしていた風船蔓を見て、元気になってくれるとしたら、これほど嬉しいことはない。だから、お前もこれを見て、あたしの言葉を思い出しておくれ。人間、諦めちゃ、そこでしまいだって、さ」
「―ありがとうございます」
 お逸は茶色い干からびた小さな実を押し頂くようにして受け取る。
 そのカサカサとした実から、温かなものが流れ込んできて、それがお逸の傷ついた身体と心を癒やしていってくれるようだ。
 お逸の眼から新たな涙がこぼれ落ちる。
 だが、これは哀しみのためではない、嬉しさから込み上げてきたものだ。
 これまで情らしい情を示したこともないやり手から受け取った、初めての優しさだった。
 おしがの手が伸び、お逸の頬にそっと触れた。
「ほら、いつまでも泣いてばかりいるんじゃないよ。そんな辛気くさい顔をしてたら、幸せの方が逃げてゆくだろう?」
 おしがの手は乾いて、荒れている。苦労を重ねてきた女の手であった。かつて、彼女もまた苦界と呼ばれる女の地獄で数奇な運命を過ごしてきたのだ。その節くれだった小さな手は、彼女が生き抜いてきた歳月の厳しさを何より物語っている。
 乾いて、かさかさしていても、おしがの手は限りなく温かい。触れられた箇所からおしがの心の温もりが身体中にひろがってゆくようだった。
「おしがさんの手、温かい。何だか、風船蔓の実と似てる」
 呟くと、おしがは怪訝そうな表情を隠そうともせず、皺に埋もれた眼をしばたたいた。
「失礼だねえ、今でこそ、あたしの手もこんなに皺だらけになっちまったが、あんたくらいの歳には負けないくらい白かったもんさ。そのあたしの手をあの茶色い実と同じだとは、全く口の減らない娘だよ」
 おしがは口では怒っているような物言いをしたけれど、その実、細い眼は少しも怒ってはおらず優しげに細められている。
 少し後、大仰に肩をすくめた。
「マ、確かに言われてみりゃア、風船蔓の実とどっこいどっこいってとこかね。こんなに茶色くなっちまって、皺だけらけになっちゃアね」
 少しおどけたように言う物言いがおかしくて、お逸は笑いながら言った。
「違うの、そうじゃないんです。おしがさんの手がとっても温かくて、気持ち良かったから―。おしがさんに貰った風船蔓の実を見ていたら、そんな風に温かな気持ちになれたので、それでつい、同じだって言っちまったんです。失礼なことを言って、ごめんなさい」
 素直に謝るお逸を、おしがは少し愕いた表情で見つめていた。
 短い沈黙の後、おしがは微笑んだ。
「お前は良い娘だねえ。器量だけでなく、心映えも良い。確かに、旦那の目論んだとおり、お前なら松風花魁を凌ぐほどの太夫になれるかもしれない。良いかい、今のように、いつも笑ってるんだよ? 哀しいことがあったって、めそめそばかりしてたら駄目だ。こんな因果な商売だ、辛いことも悔しいこともたくさんあるから、泣くなとは言わないけれど、泣くだけ泣いたら、後はきれいさっぱり全部忘れて笑顔になること、良いね?」
「―はい」
 お逸は、おしがの心からの言葉に頷いた。
「さ、行きな。夜が来るまでは、ゆっくり身体を休めておくと良い。辛いだろうけど、どうせ、夜にはまたあの旦那の相手をしなきゃならないんだから」