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天つみ空に・其の七~恋月夜~【最終章】

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 男―清五郎が間合いを詰めて、近付いてくる。お逸は猟師に追いつめられた小動物のように、じりじりと後ろへと追いつめられていった。
 お逸は今、我が身に起こっていることが現実とは俄には信じられなかった。伊勢屋清五郎が何故、ここに、花乃屋に突如として現れたのか。
「何が起こったのか判らないといった表情だな。ま、それも無理はねえか」
 清五郎は、お逸の心を見透かすかのように口の端を歪めた。
「お逸、お前が真吉と手に手を取って逃げた後、私が何もせずに手をこまねいてお前らの好きにさせていたと思うのか?」
 お逸は唇をきつく噛みしめた。やはり、清五郎は二人のゆく方を追っていたのだ。どのような方法を取ったのかまでは判らない。しかし、伊勢屋ほどの財力と知力、それに人脈があれば、何とでもできたに相違ない。今日まで見つからなかったのは、不幸中の幸いだったのだろう。―だが、とうとう、この男に見つかってしまった。
 お逸の身体中の膚がざわざわと粟立った。
「全く、手間をかけてさせてくれた。しかし、吉原というのは隠れ場所としては考えたものだと賞めてやっても良い。お前たちがここに逃げ込んだお陰で、探し出すのに随分と時間がかかってしまったのは事実だからな。幾らしらみつぶしに探し回っても、お前たちのゆく方が判らなくて、流石の私も焦った。いっときは、もう江戸から出たのかと考えたくらいだ。お前一人では、吉原に紛れ込むなぞ考えつきもしないだろう。恐らくは、あの男の入れ知恵か?」
 あの男というのが真吉を指すことは、すぐに知れた。お逸は唇を噛みしめ、清五郎を見つめた。こんな男とは、もう口もききたくない。
「どうした、愕きのあまり、黙りになったか」
 清五郎が嘲笑うように言う。
 お逸の胸にたとえようもない哀しみが湧き上がった。この男がかつて父の何よりの親友であり、父もまた弟のように可愛がり面倒を見ていた清五郎だとは信じられない。
 お逸の記憶が幼い日へと巻き戻されてゆく。膝の上に乗ったお逸の髪を優しく撫でてくれた清五郎、お逸を大きくなったと高く抱き上げ、頬ずりしてくれた清五郎。しばしば肥前屋を訪れ、お逸を眼を細めて眺めていた清五郎をお逸は大好きだった。
 まさか、あの優しい清五郎が自分を力づくで思いどおりにしようとする日が来るとは想像だにしなかった。
「清五郎さんが肩代わりして下さったお金は必ずお返しします。たとえ、どんなことがあっても、何年かかったとしても、少しずつでもお返しします」
 お逸はやっとの想いで口を開いた。
 だが、その科白は、やはり清五郎の癇に障ったようだ。清五郎が眉をつり上げた。
「お前は、まだそんなことを言っているのか」
「でも、私はお借りしたお金をお返しすることくらいしかできません。いつまでかかっても、必ずお返しするからと申し上げるしかないんです。お願いです、判って下さい」
 お逸が懸命な面持ちで縋るように見つめると、清五郎が嗤った。
「お前がそんな必死な表情をするのは、あの男のせいか?」
 え、と、お逸が戸惑いを見せる。
「あの男とは何回寝た?」
 清五郎の言葉の意味が判らない。
 お逸が眼を見開いていると、清五郎が更に近付いてきた。
「え、言ってみろ、あいつとは何度寝たんだ?」
「私―」
 お逸は怯え切った瞳で清五郎を見上げた。 清五郎の眼がつり上がり、狂気を滲ませている。冷え切った瞳は酷薄な光を宿し、お逸を容赦なく射竦めようとしている。
「お前は私の女房だ。亭主持ちの身でありながら、お前は奉公人である真吉と共に駆け落ちした。それが、何を意味するか、私へのどれほどの裏切りとなるか、お前は考えたことがあるというのかッ!?」
「黙って出ていったことは心からお詫び申し上げます。でも、私は清五郎さんのお望みのようにはできません。女中として働けとおっしゃるのなら、どんな仕事だってします。でも、お内儀さんになるだなんて、私にはできません」
「それは、私の妻になるのは嫌だということなのか」
 清五郎の声が固くなる。
 お逸はその場に端座し、両手をついた。
「ごめんなさい。清五郎さんには、おとっつぁんが残した借金をすべて返して頂きました。だから、ちゃんと清五郎さんのおっしゃるとおりにしなければならないと思うのに、どうしても、できないんです」
 短い沈黙が落ちる。お逸は、そのわずかな静寂に押し潰されそうになった。
「私の妻になりたくないという、その理由を聞かせてくれないか」
 唐突に、清五郎が沈黙を破った。
 振り絞るような声に、お逸はハッとして顔を上げた。
「お前は何か勘違いをしている。お逸、お前は私がお前を金で縛ろうとする冷酷な男だと思っているようだが、私はこれでも本気なんだぞ? ずっと、お前だけを見てきたんだ。お前が物心つくより前から、お前の成長を愉しみに見守ってきた。逢う度にきれいになってゆくお前を見て、私がどれだけ心を奪われていったか。私はお前に心底惚れている。お前さえその気になりさえすれば、私たちは誰もが羨むような幸せな夫婦になれるはずだ。お逸、どうか私の気持ちを受け容れてくれ。今ならまだやり直せる。私はこれ以上何も詮索はしない。お前は何もなかったような顔で伊勢屋に戻れば良い」
 清五郎を拒む理由―。それは、いかにしても清五郎に告げるわけにはゆかない。
「申し訳ありません、その理由は申し上げられません」
 お逸が再び頭を下げると、清五郎の乾いた声が響いた。
「あの男か? 真吉のせいだな」
「―」
 何も言えなかった。現実として、お逸と真吉は二人で伊勢屋を出たのだ。お逸は今更、この場で白々しい言い逃れを口にできるような娘ではない。沈黙は何よりの肯定であった。
 清五郎が皮肉げな笑みを刻む。
「お前は虫も殺さぬような可愛い顔をしていながら、空恐ろしい女だな。その愛らしい顔で、私を欺き、真吉まで籠絡したか。これだから、女は浅はかだ。お前は真吉の将来を考えたことが一度でもあったのか? 私はこう見えても、真吉の商いの才覚と誠実な人柄を見込んでいた。お前の色香に血迷うことなぞなければ、真吉はゆくゆくは番頭、いや、暖簾分けでもして、新しい店の一つでも持っていたかもしれないんだぞ? あの男に惚れているというなら、何故、惚れた男の将来をむざと滅茶苦茶にするようなことをした?」
 悔しいけれど、お逸は何も言い返せない。
 清五郎の言葉は道理であったからだ。自分は真吉の商人としての将来を台無しにしてしまった―。むろん、これまでにもその自覚はあった。けれど、こうして改めて清五郎から言葉にして突きつけられてみると、今更ながらに我が身のしでかした罪の大きさを思い知らされた。
 涙が溢れそうになる。
 お逸の眼からひと粒の涙がポロリと零れ落ちたのを清五郎がめざとく見つけた。
「そんなにあの男が恋しいか?」
 清五郎が叫び、お逸の手首を掴む。
 強い力で引き寄せられ、そのまま抱え上げられた。
「いやっ」
 お逸は愕き、死に物狂いで暴れた。
「止めて、止めて」