天つみ空に・其の七~恋月夜~【最終章】
「本当に、旦那からあらかじめ聞いてはいたけど、まさか、お前がこんなに綺麗な娘っ子だとは思ってもみなかったよ。だけど、お前、この器量でどうして女郎屋なんかに来たんだい、お前はわざと醜い娘を装って、まんまと人眼をごまかせたと思っていたんだろうけど、あたしら並の人間はともかく、甚佐の旦那の眼はそう易々とそんな小細工で騙されるような節穴じゃないのさ。確かに、ここには色んな素性の人間がごまんといる。言ってみりゃア、いわく付きの人間が集まる吹きだまりのようなものさ。そこに紛れ込めば、世間から身を隠せると思ったんだろうが、いわくのある者は、要するにそれだけ理由(わけ)あり、人には知られたくないような昔を背負ってるってことだ。そんな海千山千、幾多の修羅場をかいくぐってきた人間の眼が容易く欺けるわけはないだろう。あんたも真吉さんも、ちょっとこの吉原(なか)を甘く見過ぎたね」
お逸は、うなだれたまま返す言葉もない。
確かに、おしがの言うとおりなのかもしれなかった。これだけの見世を切り盛りしてきた甚佐を易々と騙しおおせると考えていたお逸も真吉も所詮は甘かったのかもしれない。 世間を、亡八と呼ばれる廓の楼主の勘を軽く見過ぎていたと指摘されれば、一言もなかった。
だが、他にどうすれば良かったというのだろう。この廓に身を隠したからこそ、これまで清五郎に見つからなかったのではないか。もっとも、その後の清五郎の動向は一切伝わってきていない。真吉も警戒して、吉原からはなるべく出ないようにしているゆえ、清五郎が二人を追跡しているかどうかは判らない。清五郎が諦めたかどうかを知りたいとは思うけれど、かえって深追いして、こちらの居所を知られてはまずいのだと、いつか真吉も言っていた。
執念深い性格から考えてみても、清五郎があのままあっさりと諦めるはずがない。が、真吉の言うとおり、こちらから清五郎に接近することは極力避けた方が望ましい。近づきすぎて、こちらの尻尾を掴まれた―ということなどないようにしなければならないのだ。
そんなお逸を見つめ、おしがは小さな溜息を吐いた。
「まっ、言いたくないなら、無理に言わなくても良いさ。旦那の言うとおり、そういつまでも黙(だんま)りを決め込んでいられるとは思えないからね」
おしがの声が虚ろに響いている。お逸はともすれば溢れそうになる涙をこえらながら、うつむいていた。
その日以降、お逸は下女の仕事をしなくても良いと言い渡された。これまで暮らしていた一階の下女部屋から二階に移るように言われ、新たに居室として与えられたのは廊下の突き当たりに二つ並んだ部屋の右側であった。その左隣は東雲の部屋である。この部屋は代々、花乃屋でお職を張ってきた花魁に限り、与えられる。ふた間続きの広い座敷であった。
お逸は何ゆえ、我が身がこの部屋を与えられたのか皆目見当がつかなかった。更に、下女としての仕事まで取り上げられ、日がな、広い部屋でぽつねんと座っているだけの日々が続いた。何もすることはなく、時間だけが無為に流れてゆく。元々じっとしているのが苦手なお逸は退屈で仕方なく、時間を持て余した。おしがにこれまでのように仕事をさせて欲しいと頼んでみても、おしがは楼主の言いつけだからと、全く取り合ってもくれない。
そんな日が二日ほど続いたある夜のこと。お逸は夕刻の湯浴みの後、おしがから着るようにと渡された着物を見て、戸惑いの表情を浮かべていた。それは、お逸がいつも着る白い夜着ではなく、緋縮緬の襦袢であった。
まるで鮮血を思わせるような艶やかな紅は、毒々しいほど鮮やかだ。お逸はひとめ見ただけで、こんなものは着たくないと思った。こんな派手な夜着を身に纏えだなんて、おしがは何を考えているのだろうか。こんなものを着るのは、それこそ身体を売る女郎ではないか。
だが、いつも着ている夜着は取り上げられてしまったため、この緋縮緬の襦袢を着るしかない。お逸は沈んだ気持ちで、緋襦袢に袖を通した。春の陽が傾き、宵闇が吉原の町をひっそりと包み始めた頃、夜見世の始まりを告げるすすがきの音色が鳴り始める。
廓の軒先に点った灯りが華やかに夜を彩り、昼間の深閑とした静けさが嘘のように不夜城吉原が生き生きと輝き出す時間だ。その頃、おしががお逸の部屋にふっと顔を見せた。
緋襦袢姿のお逸を見ると、何故か満足げに頷き、おしが自らがお逸に薄化粧まで施した。疑念が芽生えたのはこのときだ。おしがは後ろで結んでいた寝衣の帯を見るとわずかに眉をつり上げ、改めて前で結び直したのだ。前で結び、だらりと帯を垂らすのは遊女だけだ。
しかし、どうして、自分が客を取る女郎の恰好をさせられるのか―。幾ら訊ねても、おしがは曖昧な笑みを浮かべるだけで、応えてはくれなかった。その夜のおしがの態度はどこか不自然だった。お逸とまともに視線を合わせようとはせず、眼が合うと、すぐにそっぽを向く。お逸の身支度を整えると、逃げるように部屋を出ていった。
お逸は訳が判らぬまま、一人、部屋に残された。一体、これから何が起ころうとしているのか。お逸がいかにそういったことに疎いとはいえ、この事態が自分にとってけして望ましいものではないことくらいは判る。女郎のなりをさせられ、かつて松風花魁が使っていた部屋を与えられた―、そのことから浮かび上がってくるのは、お逸はこの花乃屋で娼妓として客を取らされようとしているのではないか、という疑念だった。
このまま、ここにいては駄目だ。お逸は我が身に危険が迫りつつあることを悟った。おしがが出ていった後、お逸はとにかくこの部屋から出ようと思った。真吉に、真吉に逢わなければならない。真吉に逢って、事の次第を話して、何とかしなければ。場合によっては、このまま二人で花乃屋を出た方が良いかもしれない。
お逸がこれまでない危機感を感じて、部屋を出ようとしたまさにそのときのことだ。襖に手をかけようとしたその眼の前で、ガラリと音を立てて襖が開いた。
お逸は息を呑んで前方を見つめる。
が、その愕きは眼前に佇む男の貌を見て、更に烈しいものとなった。
「あ―」
お逸の瞳に怯えの色が浮かぶ。
どうして、こんなところにこの男が―?
衝撃と疑問が烈しくせめぎ合う。
「久しぶりだな」
淡々と口にする男の表情は、どこまでも穏やかだ。この貌だけ見れば、怒っているようにも苛立っているようにも見えない。
だが、お逸は知っている。この男の静謐さはけして心からのものではなく、ほんの見せかけにすぎない、と。
「どうした、まるで黄泉の国からの遣いにでも逢ったような顔をしているな。久しぶりに良人と再会したのだから、もう少し嬉しそうな顔をしてくれても良いのではないか?」
―違う、この男は私の良人なんかじゃない。
お逸は無意識の中に首を振っていた。
「違―う。違います」
「何が違うのだ?」
男が後ろ手に襖を閉めた。
お逸は首を振りながら、後ずさる。
「一体、何が違うというのだ? 応えてみなさい。私はお前の良人であり、お前は私の妻だ。私たちは世にも認められた、ちゃんとした夫婦なのだぞ? それのどこか違うというのだ」
作品名:天つみ空に・其の七~恋月夜~【最終章】 作家名:東 めぐみ