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天つみ空に・其の七~恋月夜~【最終章】

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 その後ろで、おしがの呆れたような声が聞こえた。
「旦那、たどんは、どうやら勘違いしているようなんですよ。どうも、あたしが知らないと思ってたらしくて、仕事をうっちゃって呑気に昼寝なんぞしていたようで」
 お逸は、甚佐やおしがから我が身が〝たどん〟と呼ばれていることはよく知っていた。それは、その名のとおり炭団のように色黒だという意味合いがあることも知っている。が、お逸にしてみれば、そのように呼ばれることは、かえってもっけの幸いであったのだ。
 おしがの言葉を受けて、甚佐は片頬を歪めた。この男特有の笑い方で、こんな笑い方をすると、普段は穏やかで物判りも良い四十男の本性がまざまざと現れる。そう、どこまでも酷薄で、目的を遂げるためには手段を選ばぬという真の姿が。
「そうか、真面目一途だと思っていたが、案外、羽目を外したりするところもあるのだな。まァ、良いだろう。それくらい抜け目のない方がこちらとしても望ましい。ただ堅物で生真面目なだけでは、この苦界は生きてはゆけないからな」
 甚佐は独りごちると、おもむろに傍らにあった桶を手にした。一体、何を―と、お逸が疑問に思う暇も与えず、甚佐は両手に持った桶をいきなりお逸に向かって逆さにする。
 刹那、ざっと頭から水をかけられ、お逸はその冷たさに身を強ばらせた。桜の花の咲く時季とはいえ、水はまだまだ冷たい。水浸しになったお逸は、髪の毛はむろん、着物もびしょ濡れになった。
「―」
 あまりの成り行きに、お逸は言葉もない。ただ茫然として甚佐を見つめるしかない。
「これが、仕事をさぼっていた罰だ」
 甚佐の冷たい声が無情に響く。
「おしが、たどんを風呂に入れてやれ」
「はい」
 おしがは頷くと、お逸の手を引いた。
「さ、こっちに来るんだよ」
 お逸がなおも惚けたように突っ立ていると、おしがに強く手を引かれた。小柄でやや前屈み気味になった年老いたおしがのどこにこんな力が潜んでいるのかと思うほどの力だ。
 半ばおしがに引きずられるようして、お逸は湯殿に連れてゆかれた。この時刻、共同で使う湯殿には誰もいない。満々と湯を湛えた浴槽がひっそりとそこにあるだけだ。
 人形のように虚ろになっているお逸の着物をおしがが脱がせようとする。帯を半ばほど解かれたところで、お逸がハッと我に返った。
「何をするの、止めて下さい」
「旦那の命令だ」
 おしがは抑揚のない声で淡々と言う。
「お前がどうしても嫌だというのなら、無理に手伝おうとは言わない。だが、旦那の命に逆らえないことは、お前もよく心得てるだろう? あたしは外で待ってるから、さっさと湯に入っておいで」
 おしがは言うだけ言うと、控えの間から出ていった。湯殿は浴室と控えの間から成り立っている。控えの間で着替えるのだ。おしがは控えの間の外の廊下で待つつもりらしい。
 お逸はしばらく唇を噛んでいたが、仕方なく帯を解き始めた―。
 その四半刻後、お逸は、再び楼主部屋にいた。おしがの用意した小袖は粗末だが、こざっぱりしたものだ。浅葱色の地に紅い花が散った、娘らしい柄だ。
「旦那、連れてきましたよ」
 おしがが嗄れた声で告げ、煙草を吸っていた甚佐が顔を向けた。その細い眼が見る間に大きく開く。その面には紛うことなき驚愕の表情がある。
「ホウ、これは」
 甚佐は愛用の煙管を勢いよくポンと煙草盆に打ち付けた。お逸をしげしげと見つめ、わずかに眼を眇めた。
 確かに、長年、あまたの美しい娘たちを見てきた甚佐を唸らせるだけの美少女がそこにいた。透き通るように白い膚とは、こういう色合いをいうためにあるようだ。肌理細やかな白磁の膚に、冴え冴えとした輝きを宿す双眸は凛と張っていて、涼しげだ。見る者を思わず引き込んでしまいそうな光を湛えて、一体、どれだけの男を惑わすだろうか。
 唇は花のようで、紅など引かずとも十分に艶やかで、男なら是非味わい、触れてみたくなることは請け合いだ。
 相変わらず胸も小さいし、腰つきも細すぎるし、身体つきの貧弱さは隠しようもないけれど、それは成長と共に解決する問題だろう。まさに、開きかけの花といった風情の可憐さを持つ美貌だった。この手の女が男の好き心を最もくすぐるものだと、甚佐は二十数年の亡八としての経験でよく知っている。なまじ成熟した色香溢れる女よりも、男はかえって、こういう未成熟さを残した初々しさを持つ娘を好むものだ。
「よくもまア、見事に化けていたものだ。醜いたどん娘のふりをして、この儂を騙そうなどと小賢しいことを考えおって」
 その瞬間、お逸の全身を雷に打たれたような衝撃が駆け抜けた。
「あ―」
 お逸はあまりの恐怖に顔を上げることさえできなかった。迂闊だった。予期せぬなりゆきに、ただ戸惑うばかりで、自分が膚を黒く染めていることまで思い及びもしなかった。
 そう、お逸の膚は元々、あんなに黒くはない。それこそ炭のように真っ黒な膚は、炭団を水に溶かして塗って、わざと黒く染めたのだ。すべては楼主の甚佐を初め、人の眼を欺くためであった。
 そのために、ここに来てからというもの、風呂に入ることもせず、秘密を守り通してきたというのに、たったわずかの瞬間で、これまでの努力もすべてが無駄になってしまった。
 いや、努力云々というより、いちばん怖ろしいのは、この底知れぬ不気味さを持つ楼主に最も知られたくないその秘密を知られてしまったことだろう。
「見たかい、おしが。これだけの器量の娘は、そうそうお眼にかかれるもんじゃない」
 甚佐がさも満足げに言うと、おしがも感に堪えたような声で言った。
「確かに、あたしも長くやり手をしてきましたが、こんなに綺麗な膚を見たことはありませんよ。この白い膚、内側から光り輝くようじゃありませんか」
「何のために、こんなことをした?」
 甚佐に問われ、お逸はますます身を固くした。
「ただ人の眼を逃れるためにだけ、わざわざこんな手の込んだ芝居を打ったとは思えねえ。お前と真吉は兄妹だという触れ込みだが、それも十中八九は嘘に違えあるまい。真吉はお前の何だ、情人(いろ)か?」
 お逸は唇を引き結び、沈黙を通す。そんな質問に到底応えられるものではない。
 甚佐は頑なに黙り込むお逸をじいっと見つめている。その双眸は見る者がハッとするほど醒め、酷薄な光を宿していた。
「まあ、良い。そうやって強情を通していられるのも今のうちだ」
 甚佐は軽く受け流し、肩をすくめた。
「おしが、この娘の身柄はお前に預ける。大切な商品だから、十分気をつけるようにしてくれ。悪い虫が寄ってこねえようにな」
 甚佐の言う悪い虫というのが他ならぬ真吉のことを指すのだと、このときのお逸は混乱のあまり気付くすべもない。
 はい、と、おしがが畏まって頭を下げる。甚佐が顎をしゃくると、おしがはお逸を促し部屋の外に出た。