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天つみ空に・其の七~恋月夜~【最終章】

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風船蔓(ふうせんかずら)
 花言葉―あなたと飛び立ちたい、多忙。九月十七日の誕生花









     《其の壱》

 夢を、見ていた。
 どんな夢だったかはよく憶えていないけれど、ただ、懐かしく、ふんわりとした夢だった。
 何となく幸せな、満ち足りた気分になって、ゆっくりと眼を開けると、花びらが散っていた。
 薄紅色の花びらが風に乗り、くるり、ひらりと踊っている。そこはかとない香りがかすかに辺りに漂っているような気さえした。
 頭を両の腕に乗せ、仰向けに寝転んだお逸の頭上いっぱいに蒼空がひろがっている。寝転んで蒼い空を見上げていると、風が吹く度に、花びらがひらりひらりと頭上を横切り、舞い流されてゆく。
 卯月の初めの陽をいっぱいに浴びた花びらは透明にも見え、眩しく光を弾きながら、くるくると舞い踊っていた。その風と戯れるかのような可憐な花びらの舞を飽くことなしにいつまでも眺めている。それは、まさに辛い現実を忘れてしまうような、至福の一瞬だ。
 これは確かに現のことなのに、眼前の光景があまりにも美しすぎて、どこか現実離れしたもののように思えてならない、自分はまだ夢の中にいるのではないかと思ってしまい、ゆるりと視線をめぐらせ、これは確かに現の出来事なのだと認識する。
 唐突な覚醒によって、幸せな夢は途中で断ち切られてしまった。そのことを少しだけ残念に思いながら、お逸は真っすぐに差してくる陽光に眩しげに眼を瞬いた。
 お逸が花乃屋に来てから、まもなく半年を迎えようとしている。真吉とは相変わらず思うようには逢えないけれど、いつか二人だけで暮らせたならという想いが今のお逸を辛うじて支えていた。ここにいれば、たとえ遠くからでも真吉の姿を眼にすることができる。言葉を交わせなくても、そうやって遠くからひとめ真吉の無事な姿を見られるだけで良い。
 お逸は元々、江戸でも指折りの大店にして老舗の呉服太物問屋肥前屋の一人娘であった。それが父の突然の死によって、すべてのものを失った。あろうことか、父は商売に失敗して多額の負債を抱えていたのだ。お逸は借金のかたに遊廓に売られそうになったのだが、その危機を救ってくれたのが父の長年の友人伊勢屋清五郎であった。
 清五郎はまだ三十一歳の若さながら、同業の呉服商から一目置かれるほどの凄腕の商人であり、父の良き理解者でもあった。しかし、清五郎はお逸を養女として引き取ると言ったはずなのに、現実としては女房として迎えられたのだ。
 それでも、お逸は清五郎を信じ切っていた。まだ物心つくかつかぬ時分から、膝に乗せて遊んでくれた清五郎は、お逸にとっては親戚の叔父か兄のような存在であったのだ。ところが、その清五郎が突如として豹変した。お逸が手代頭の真吉と接近していることを知り、嫉妬のあまり、お逸を手込めにしようとしたのである。
 お逸は真吉と共に手に手を取って伊勢屋を出た。そして、清五郎から身を隠すために選んだ場所が吉原の遊廓だった。
 いつの日か、真吉と二人で共に暮らしたい―、それが今のお逸の願いだ。同じ屋根の下に暮らしながら真吉と滅多に逢えないのは辛かったけれど、お逸には希望がある。その希望が消えない限り、お逸は前を向いて歩いてゆけた。真吉こそが、お逸の心の拠り所であり、光であった。
 お逸は名残惜しさを感じつつも、ゆっくりと身を起こす。立ち上がると、肩に乗っていた薄紅色の花片をそっと指先で摘んだ。ふうっと吐息を吐きかけただけで、花びらは飛んでゆく。
 その時、一陣の風がサァーと吹き渡り、満開の桜の梢が一斉にざわめいた。無数の花びらが雪のように風に舞い上がり、流されてゆく。お逸の肩に乗っていた、たった一枚の花びらもその中に紛れ、直に見えなくなってしまった。
 お逸はその花びらが消えていった方をいつまでも見つめていた。その時、背後で突如として声が響いた。
「お逸、お逸はいるかえ」
 やり手のおしがが呼んでいる。お逸は眼をわずかに見開くと、すかさず大きな声で応えた。
「はい、ただ今、参ります」
 お逸は大慌てで庭を突っ切り、廊下に上がった。廊下に仁王立ちになり、おしがが睨みつけている。
「一体、どこで油を売ってるんだい?」
 この頃、お逸は庭の桜の樹の下でたまに午睡をする。むろん、やり手のおしがに見つからぬように、せいぜいが四半刻ほどの間、うとうとと微睡むだけだが、温かな陽溜まりで丸くなっていると、本当にぐっすりと寝入ってしまうこともあった。まだ十六歳のお逸にとって、夜明けと共に起き出し、深夜までの下女奉公はけして楽なものではない。疲れから、一度熟睡してしまったら、なかなか目覚めないこともままあった。
「全く、油断も隙もない娘だね。眼を離したら、すぐにどこかでさぼるんだから。早く来な、甚佐の旦那がお呼びだよ」
 楼主が呼んでいる―、そのひと言に、お逸は蒼白になった。ここをもし追い出されてしまったら、お逸は本当に行き場がない。それに、真吉と離れ離れになってしまう。それだけは何としてでも避けたかった。
 やはり、途中で仕事を抜け出して、度々昼寝をしていたのがまずかったのかもしれない。おしがはこの花乃屋の奉公人―娼妓はむろん、下女や若い衆に至るまでを束ねるやり手だ。口うるさいことでは有名で、遊女たちからも怖れられているが、見かけほどは冷酷非情でもないし人も悪くはない。おしがから面と向かって注意を受けなかったのを良いことに、お逸は温かくなってから、何度かここで昼寝をした。
 もしや、おしがはとうにそのことに気付いていて、とうとう堪忍袋の緒を切らしたのではないか。腹に据えかねたおしががついに楼主の甚佐に事の次第を告げたのではないだろうか。一度悪い考えに囚われたら、坂道を転がるように悪い想像ばかりが頭の中で繰り返されてゆく。
 仕事を抜けて、桜の樹の下で昼寝をしていたなどとあの楼主に知れれば、ただでは済むまい。それでなくとも、お逸がここにいられるのは、真吉の用心棒としての腕を甚佐が手放したくないからだ。ここに来た日、真吉は自分を雇うつもりならば、お逸も共にここに置いて欲しいと甚佐に告げたのである。いわば、お逸はお情けでここで厄介になっている身にすぎない。それなのに、仕事を抜け出して昼寝なんかしたりして。
 お逸は、つくづく我が身の浅はかさが悔やまれてならなかった。とにかく、ここは平謝りに謝るしかない。もうこのことに懲りて、今後は二度と同じような真似はしないと誠心誠意話すしかない。お逸はおしがの後について廊下を歩きながら、そんなことを考えていた。
「旦那、たどんを連れてきました」
 楼主の部屋は、入り口を入ってすぐの場所にある。むろん、甚佐の起居している場所は別にあって、ここはいわば、楼主の事務所―仕事部屋のようなものであった。
 おしがが障子越しに声をかけると、中からぞんざいな声が返ってきた。
「オウ、来たか」
 おしがに背を押されるようにして部屋に入る。
 お逸は即座にその場に正座した。きちんと両手を揃えてつき、頭が畳につくまで深々と垂れた。
「申し訳ございません。今度からは二度とこのようなことがないように十分気をつけますから、今回だけはどうかお許し下さいませ」