十二色の透明
二、
青い空が抜けるような朝だった。
雲が浮かび、流れ、山の向こうにある戦場へ向かおうとしている。
いつものように石段を上る。跛を引き、息を切らせて上る。
八月、夏の粘着質な空気が体にまとわりつき、徹二はすっかり汗ばんでいた。
朝から畑に出ていた。畑でおにぎりを食べて、そのまま寺へ向かって歩き出した。正午を少しまわったころだろうか、寺の庭では咲子が徹二を待っていた。
「やっと来た。少しここで待っていてね」
一度、寺の中へ消えた咲子は、今度は紙包みを持って走って出てきた。
「これ、やっと届いたの。徹二さんに」
徹二は咲子から渡された紙包みを丁寧に開けようとした。だが左手の親指が利かないものだから、左手にのせただけの包みを右手で開くようにしなければならない。その不器用な仕草に咲子は自分の思慮の薄さを感じて、
「ごめんなさい」
と、徹二の左手の上にある包みに手を伸ばした。
徹二の不自由な左手を、咲子の右手が下から包み込んだ。
柔らかな感触が徹二の左手の意識を奪い取った。咲子は徹二の左手に自分の右手を添えたまま、左手で紙包みを開く手伝いをする。すでに徹二の感覚は全て咲子が触れている左手に集中しており、健常なはずの右手さえ痙攣したように動かなくなっている。
咲子は徹二の手の上にある紙包みを開いた。二人の間にある包みの中には、真新しいスケッチブックと十二色のクレヨンが入っていた。
徹二は自分がどこを見て、何を感じているのか認識できない感覚に陥った。
「これは、」
やっと、それだけ言えた。
「徹二さんは絵が上手だから、実家から送ってもらったの。前に約束したこと、私にここの景色を描いてくださいって、覚えていますか」
咲子は柔らかい掌を徹二の左手に添えたまま、徹二を覗き込むようにして言った。いたずらな笑顔を添えて。
「うん、覚えている。もちろん」
不意に、住職の声がした。「おお徹二、来ていたのか」
強い力で現実へ引き戻された気がして、徹二は包みを咲子の手から引き取った。柔らかい咲子の手の感触が左手の甲に残っている。
「こんにちは」
徹二は住職に会釈した。住職は静かに二人のそばへ来て言った。
「今ね、玉音放送があったよ」
徹二は住職の顔を見た。わざわざ、何の話だろうと思った。
「日本は、降伏した」
言葉が出なかった。それは咲子も徹二と同じだった。
どうなるのか、
漠然とした不安感だけが胸のあたりを支配した。
「お父さんは、お母さんは、妹は、」
咲子の瞳にはみるみる涙が溢れ、今にも零れ落ちそうになるのを懸命にこらえて住職に聞いた。
「心配するのは、やめよう。みんな無事や。それを信じて、しばらくここで、自分にできることだけを考えて、家族みんなのために何があっても生き抜こう」
住職は一つ一つの言葉を、咲子に飲み込ませるようにして言った。
急に、蝉の鳴き声が大きくなった。いや、本当はずっと同じ音量で鳴いていたのかもしれない。
「自分にできること」
その言葉が、混沌する意識をこの山寺へ引き戻しただけなのだろう。手の中には、先ほど咲子から受け取った包みがある。包みの中には初めて見る本物のクレヨンとまっさらなスケッチブック。咲子の頬を大きな涙が伝い落ちた。不自由な左手を包む咲子の柔らかな感触と、何を言えば咲子の気持ちを包み込めるのか分からない焦燥感。徹二は急に息苦しさを感じて後ろへ二歩ほど下がった。
下がった拍子に不自由な右足が何か小さな石に躓き尻餅をついた。
腕の中にある包みだけは落とさないように抱え込んだまま不器用に尻餅をついた。
住職が驚いて、地面に転がる徹二のもとへ歩み寄る。咲子はもう一粒大きな涙を落として寺の中へ駆けて行く。住職に介抱され、立ち上がりながら咲子が消えた扉を見ていた。
「大丈夫か」
住職が徹二に聞いた。徹二は頷いた。
「クレヨンやね、咲子が実家のお母さんに送ってくれとせがんでたよ。暇つぶしに絵を描こうとしているんやと思っていたんやが、徹二に渡したかったんやな」
徹二は包みの中のクレヨンのケースを開けて見た。
きれいに並んだ十二色のクレヨンは、この世界に溢れる無色な風景に鮮やかな色彩の雫を落とすに十分すぎた。
葉は緑に、炎は赤く、土は黒く、いや赤茶色であり、薄い茶色である。空も青いだけでなく深く浅く、白い雲には影があり、影には濃いも薄いもある。その色調は言葉で表現できず、網膜が感じる僅かな光の揺れでさえ白や黄色と呼べない輝きがある。
「咲子は、徹二の絵が上手い言うて褒めておった。実家へ持って帰って、兵隊から帰ってきたお父ちゃんに見せたい言うてやったで」
徹二はクレヨンのケースに蓋をした。スケッチブックと一緒に包みに戻す。
「そのクレヨンとスケッチブックで、咲子に絵、描いたり」
自分にできること。
咲子に、こんな自分ができること。
徹二は住職に礼を言い、これからの日本がどうなるのか、聞いた。
「それは分からへん。誰にも分からへんよ。降伏なぞしたら、占領される。奴隷になって牛馬のように働かされるかもしれん。おなごはみな、売られるかもしれん。せやけど、そんなこと心配しても何も動かん。変わらん。人一人の力なんて微塵もない。な、徹二、お前は手足が悪い。人より器量が悪い。そんなお前が難しい事考えても仕方ないのやないか。畑仕事もその手じゃろくにできん。けど、絵が描ける。咲子はお前の絵の才能に救われたんや。お前の絵がもっと見たいと言うとった。家に持って帰りたいて言うとった。お前の絵は一人で寂しかった咲子に笑顔を戻したんやで」
涙がこぼれた。
ぼろぼろとこぼれ落ちた。
住職は徹二に背を向けて、ゆっくりと歩いて去った。
徹二はしばらく寺の庭に座り込んでいたが、息を大きく吸い込んで立ち上がった。包みを抱えて石段を下りていく。上りよりも下りのほうが慎重になる。躓いて転げ落ちるようなことだけはしたくない。ゆっくりと、自分にできることは何なのか考えながら石段を下りる。
不意に人の影が視界に入った。
詰襟を着た学生風の偉丈夫だった。
「道を開けろ」
見たこともない男だった。その横柄な態度に徹二は睨み返した。
「道を開けろと言っている」
詰襟の偉丈夫は徹二の腕の中にある包みをちらりと見て、動こうとしない徹二の肩口を突いた。
「お前は唖(おし)か、つんぼか、俺の言っていることが聞こえないのか」
突かれて、バランスを崩して、また尻餅をついた。
「最初から、そうしていればいいものを」
吐き捨てるように言って、男が徹二の横を通り、石段を登っていく。
少し上って、詰襟は振り返る。立ち上がった徹二に向かって言った。
「貴様、知っているか、日本が降伏した。この大事な時に、遊んでいられる貴様が羨ましいが、貴様のようになりたいとは思わん」
徹二は相手にすることもなく、そのまま石段を下りていく。
「どうせ、聞こえないのか」
徹二は、その台詞をクマゼミの鳴き声と一緒に背中で聞いた。