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十二色の透明

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 一、





 どういうわけか、生まれたときから左手の親指と右の足首が動かない。
 それが動けばどれほど便利か徹二は知らない。ずっとその手とその足で生きてきた。寺の石段を上るのも、苦労はするが器用に上る。跛(びっこ)を引きながら一段一段上っていく。
 蝉が鳴き始めていた。
 まだまだ涼しい山の朝だった。緑は浅いが、白い空気から陽の光に照らされた草の匂いは十分に深かった。
「もう夏になりよるね」
 最近この寺へ来た若い坊主が徹二とすれ違う時に声をかけた。徹二は息を切らしながら、おはようございますとだけ答えた。
 石段を登り切ると、石畳を箒で掃く咲子がいた。半月ほど前からこの寺へ来ている。関東のなんとかいう町から来たと言っていたが詳しいことは忘れた。覚えているのは、その町の事を話しているときにとてもよい、甘い匂いがしたことだけだ。
 早く日本が勝ってくれないかな。
 咲子が言っていた。
「日本が勝ったら、咲子ちゃんは関東へ帰るの?」
 と、徹二は聞いた。咲子は頷いて、
「父ちゃんも兵隊から帰ってくるし、母ちゃんと妹と家族そろって暮らしたい」と答えた。
 徹二は手と足が不自由だから徴兵されない。
「みんな一緒に暮らせるといいね」
 上手な笑顔をつくれないと感じながら徹二が咲子に言った。その咲子がこの寺へ疎開してきてからは、徹二にとって石段が苦でなくなった。体も軽く、苦しい息さえも心地よかった。
 おはよう。
 咲子が徹二を見つけて言った。徹二の右手には小さな手提げ袋があって、その中には短くなった鉛筆と紙の切れ端が入っている。本当は上等な紙に描きたいが、そんなものはどこを探したって見当たらない。
「今日は何を描くの」
 と、咲子が箒を手にしたまま徹二に歩み寄って聞いた。
 咲子ちゃん、咲子ちゃんを描きたい。
 本当は、そう言いたい。子供のころから絵だけは上手だとみんなに褒められていた。
「山さ、風が緑色になったから、山を描きたい」
「緑色の風って、むずかしいね」
「うん。鉛筆だからね、どうやって山の色を描けばいいのか、ずっと考えている」
「風にも色があるの」
 咲子は徹二に、そう尋ねながら箒を振って風をおこして見せた。徹二は答えに困った。確かにさっき、風が緑色になったと言ったが、何か根拠や思いがあって発した言葉ではない。
「むずかしいなあ」
 徹二の答えに、咲子が笑った。
 今まで生きてきて、そんな笑顔を徹二は見たことがなかった。そばにいる人を幸せな気分にさせる笑顔。それが見られるならば、跛を引きずり上る石段が苦ではなくなる笑顔。
 その笑顔を描きたいと、毎夜毎夜想像する。
 咲子の笑顔を描いている自分。
 咲子の笑顔が永遠になるスケッチブックが欲しかった。
 しかし、日本が勝つまで綺麗な紙を望むことはできそうにない。よれよれの紙切れにどれだけ丁寧に描いても咲子の笑顔は表現できない。いや、今の自分がどれほど丹精込めて描いたところで咲子の笑顔が現れるだろうか、明るくて心を穏やかにする笑顔を描ききる自信がなかった。
「徹二さんが描いたこの山の景色、私にください。戦争が終わって家に帰っても、その絵を見るといつでも思い出せるから。この山と、お寺と、」
 そこまで言って、咲子は徹二に微笑んだ。
 この山と、お寺と、徹二。
 そう言ったように、徹二には思えた。頷いた。ただ、頷いた後に、それはお別れを意味するのだと気付いた。咲子の中で、自分もこの景色も思い出になってしまうのだと気付いた。
 切なく、なった。
 寺の中から咲子を呼ぶ声がして、咲子は、
「じゃあまた」
 と、言い残して駆けだしていた。
 手提げの中から紙切れを取り出した。
 こんなボロボロの紙に描いた景色を思い出にするなんて、全ての色彩が安物になってしまう気がした。
 徹二は寺の庭にある大きな石に腰かけて、まだ鳴き始めたばかりの蝉の声を聴きながら風がそよぐ木々の葉を見ていた。ここは戦争など感じさせない世界だった。焼夷弾で町が焼けたと話で聞くと、町の人たちは助かったのだろうかと呑気に心配する自分が存在する世界。日本が負けるわけがないと安易に思い込んでいる他人事の世界。
 膝の上に置き、不自由な左手で押さえた紙切れに、風に揺れる緑を黒い鉛筆で描いていた。
 これが現実の世界。
 防空壕も焼夷弾も召集令状もない。色彩もない。風もない。
 古い紙切れに描いた現実の世界。



作品名:十二色の透明 作家名:子龍