十二色の透明
三、
十月になると日中でも涼しい日が続く。
寺の庭にある大きな石に腰かけ、徹二は夏が終わった山の景色をスケッチブックに写しとっていた。
たった十二色のクレヨンだが、そのスケッチブックの中では自在に溢れる色彩を表現できた。蒼も翠も、紅も橙も、全ての生命に迸る力の限りを鮮やかな景色の中に躍動させることができた。
「夕焼けの中の稲穂が見たい」
咲子が言っていた。結局、日本が降伏しても何も変わらない。ただ生活が安定していないからと咲子が実家に帰る日が先延ばしになっている。お父さんも兵隊から帰ってきた。無事だった。咲子には笑顔が戻っている。終戦の日に石段ですれ違った学生は時々この寺へ顔を見せる。熱心に絵を描く徹二を見かけても何も言わない。
咲子にもらったスケッチブックには夏から秋にかけての山と村と寺の景色が溢れ始めていた。
住職がやって来て、来週にも咲子が関東へ帰ると話してくれた。
「そのスケッチブック、渡してやりい」
住職の言葉は優しかった。それが別れを意味することを十分に理解した言葉だった。
「もう会われへんのかな」
徹二は素直に聞けた。
「関東やからな、簡単には会われへんな」
「まあ、分かってるけど」
言いながら、手はスケッチブックの上を動き続ける。咲子に会えなくなることが現実の話ではないような、どこか他人事のような気がしていた。
「徹二、お前はそのために絵を描いてるんやろ」
手を止めた。住職の言っていることが呑み込めなかった。徹二の顔を見て、住職はもう一度言った。「咲子に会われへんようになるから、咲子の中にずっとこの寺も山もお前も、残しておきたいから絵を描いてるんやろ」
夕方が近くなってきていた。秋の空は高く、薄く筆を引いたような雲が動かずにじっとしている。
「咲子ちゃん、いつ、帰るって」
「来週や。来週までに、全部、描ききれるか」
「夕焼けの稲穂や」
住職は聞き返した。「なんて」
「夕焼けの稲穂が見たい、て」
「徹二なら描けるやろ」
頷いた。住職は徹二の肩を叩いて歩いて行った。
石の上から立ち上がり、座っていた石の上にスケッチブックを置いて、一枚一枚ゆっくりと見直した。この寺の風景が、咲子にとって大事な思い出になるように、尽くせぬ思いが赤となり緑となり、景色の中のほんの一片を切り取ったようにこのスケッチブックに写しとった。
右手でスケッチブックを掲げる。寺の庭から見える木々を描いた絵。その絵を下ろしても、同じ景色が目の前に存在している。奥行があるとかないとか、今目の前にある現実の景色でさえ、本当に奥行があるというのか、今、目の前にある赤くなり始めた緑の葉も、本当に誰の目から見ても同じ色に見えるというのか、誰が作った世界なのか、誰が教えた色彩なのか、赤を赤と呼ぶ。しかしその赤は他人から見ても、犬や猫から見ても同じ赤なのか、否、うれしいときと悲しいときでは違う赤が存在する。このスケッチブックの景色は咲子の心に存在する真実の風景なのか、思い出の色彩なのか。
境内の奥で、人の話し声がした。
徹二はスケッチブックとクレヨンを片付け、帰る前にすこし、声のしたほうを覗いてみた。
咲子がいた。
いつの間に来ていたのか、終戦の日に徹二を突き飛ばしたあの学生がいた。
咲子を抱きしめていた。
来週でお別れだな。
小さな声が聞こえた。
徹二は石段を下りていた。
上るときよりも、慎重にならなければいけない。
躓いて転げ落ちるわけにはいかない。
夕焼けが赤く空を染めていた。
石段から見える田んぼに、夕焼けに照らされる稲穂が浮かび上がっていた。
それは黄金だった。
輝く黄金の稲穂が、今、見える世界の全てだった。
赤く染まる空と、それを移す大地の黄金。
しかしその色彩は徹二の心に無色を写した。
透明な景色だった。
この絵を描こう。
この絵を描くことができたなら、咲子も関東で自慢できるだろう。
涙が溢れだしていた。
止めようもなく溢れ出す涙は透明な景色を一層清らかにした。
『畑仕事もその手じゃろくにできん。けど、絵が描ける』住職の言葉が思い出された。『咲子はお前の絵の才能に救われたんや。お前の絵がもっと見たいと言うとった。家に持って帰りたいて言うとった。お前の絵は一人で寂しかった咲子に笑顔を戻したんやで』
透明な景色、だった。
完