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仙境綴り(せんきょうつづり)2~梨羅の姫君~

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「朕は先の妻を流産のために失った。淑麗(しゅくれい)を失った後、朕は二度と妻を迎えるつもりはなかった。だが、重臣たちに押し切られる形で、そなたを迎えることになった」
 その台詞は鋭い刃のように桃華の胸を刺し貫いた。
―重臣たちに押し切られる形で迎えることになった―。
 それは、つまり桃華は望んで迎えられた妻ではないということなのだ。前皇后苑淑麗(えんしゅくれい)は彩鳳より一歳年長の十六歳で、当時皇太子であった十五歳の彩鳳に嫁いだ。淑麗は美にして賢、その打てば響くような才知と心優しい気性に彩鳳は淑麗を熱愛し、二人は仲睦まじかったという。二十一歳のときに彩鳳が即位すると共に皇后に立てられ、その年、彩鳳の子を身ごもった。結婚五年目の懐妊に彩鳳をはじめ、臣下一同歓びに湧いたが、惜しくも流産、淑麗はその半月後に儚く亡くなった。
 と、桃華は自室の卓の上に乗った鳥籠のことを思い出した。毎日、飽きもせずに暇があれば眺め続けている鳥籠―、中には桃華が嫁ぐ際に持ってきた極楽鳥がいる。極楽鳥もリーラと同じく砂漠の国が原産の生き物だが、羅の国では手厚い保護によって繁殖に成功した。今、桃華にとっては、この鳥だけが故郷を偲ぶよすがである。
 啼かない鳥は孤独だ。たとえ豪奢な鳥籠に入れられ、贅沢な餌をついばみ大切に世話されていても、本当に生きる歓びや歌いさえずることの楽しさを知らない。籠の中の美しい鳥には自由に大空を飛翔することは許されないのだ。それは一生涯、異国の後宮という鳥籠に閉じ込められて過ごす桃華の境涯にも似ている。
「陛下に我が父が献上した極楽鳥を憶えておいでにございますか」
 桃華はか細い声で言った。
 彩鳳が眼を瞠る。
 桃華は淡々と続けた。あまりにも哀しい時、人の心はどうやら麻痺してしまうらしい。今、桃華の心は哀しいほどに虚ろであった。
「私はあの鳥と同じく籠の中の鳥ですわ。一生誰からも愛されることなく、振り向かれることもなく、焦がれるような想いを抱き続けて空しい刻を過ごしてゆくのでございますね。彼(か)の鳥は梨羅の樹と共に砂漠の原産です。あの鳥もはるかなふるさとである砂漠をどれほど懐かしく思い、焦がれていることでしょう」
 判りきってはいたことだったけれど、押しつけられた妻なのだとこうも面と向かって直截に言われるのは流石に辛い。美しく聡明であったと今に伝えられる淑麗は我が身とひきかえ、大人の女性であったに相違ない。桃華の蒼い眼に熱いものが滲んだ。その時、彩鳳の言葉が桃華の耳を打った。
「朕は最愛の妻を再び失うのが怖いのだよ」
「―?」
 桃華が愕きに眼を見開いて彩鳳を見ると、彩鳳は哀しげに微笑んだ。
「五日前、そなたの部屋を訪れた時、朕は自分でそなたを娘として扱う、指一本触れぬとと約束しておきながら、危うくそれを違(たが)えるところであった。先刻、そなたは朕がそちを遠ざけていると申したが、それは朕のそなたへの気持ちをこれ以上抑えることが難しいと思ったからなのだ。一緒にいれば、手を伸ばしてそなたを抱きしめてしまいそうになってしまう。淑麗を失って以来、私もう二度とあのような哀しみを味わいたくないと、ひたすら誰かを愛することを怖れてきた。だが、朕はそなたにめぐり逢い、ひとめでそなたに魅せられた。だからこそ、朕はそちに娘として接すると言ったのだ」
 彩鳳が自分に魅せられていた―、それは思いもかけない言葉であった。その時、桃華の視界の片隅に頭上の白い花が映じた。
「陛下、ご覧下さいませ。リーラの花ですわ」
「リーラ、確かそなたの国では梨羅の花をそのように呼ぶのだそうだな。五十年に一度しか咲かぬ珍しき花だというが、そなたに言われるまでは迂闊にも気づかなかった」
 彩鳳が桃華の指し示す方を見上げる。重なり合った緑の葉の枝先に一輪、白い可憐な花がひっそりと咲いていた。百合に似た外観は紛れもなく梨羅の花である。
「陛下、この樹が私の曾祖父の妹君がこの国に嫁いで参った折、持参したという樹でございますか」
 桃華は感慨深く梨羅の花を眺めながら言った。桃華の曾祖父はかつて羅の王の地位にあったが、その妹陶仙華(とうせんか)はその昔、三代前の皇帝にやはり海を越えてはるばる嫁いだ。残念なことに、仙華は皇帝との間に子をなさず、次の皇帝位は第二妃との間の皇子が継いだ。それが彩鳳の祖父に当たる。ゆえに、桃華の曾祖父の妹が彩鳳の曾祖父に嫁したからといって、彩鳳と桃華の間に血縁的な繋がりはない。
 仙華がこの国の皇帝に嫁いだ時、梨羅の樹の苗を持ってきたという。仙華が嫁ぐ以前には、梨羅の花を探しに砂漠まで行かせた皇帝もいたらしい。記録によれば、はるかな昔、三代皇帝英治帝(えいちてい)(英宗)が不老不死の薬として宝寿草を家臣にわざわざ遠き砂漠の国まで探しにゆかせたという記述が見られる。超ではリーラの樹は梨羅と音訳されるが、一般的には宝寿草と呼ばれることが多い。宝寿草―、その名のとおり、その葉を煎じて呑めば永遠の生命をも得られるという言い伝えがある。
実際に不老不死の効験があるかどうかは定かではないが、確かに万病に効く妙薬であることは間違いない。
 リーラの樹は元来は砂漠の国揚に自生する植物であるが、やがて交易商人によって海を隔てた羅にも伝来した。比較的温暖な気候の羅では育つことができたのである。
 梨羅の花は百合と見紛うほどの美しい外見と得も言われぬ芳香が特徴的である。今もひそやかに開く白い花からは独特の芳香が漂っていた。
「不思議なものでございますね。リーラの花は元々は砂漠の植物で、冬の寒さが殊の外厳しいこの国にも滅多と根付かぬといわれていたのに、こんなに見事に大きく生長し、枝葉を繁らせて。この国で仙華様が亡くなられた後もこうして、はるかな刻(とき)の流れの中、変わることなく五十年に一度花を咲かせ続けているのですから」
 結局、たおやかな容貌と外見にふさわしい優しさで皇帝に愛された仙華は、実子のないまま五十年余りの生涯をこの国で終えた。仙華が亡くなり、刻は流れたけれど、彼女のもたらしたリーラの樹は見事にこの国の土地に根を降ろし花を咲かせた。
 我が身もまた、仙華や彼女のもたらしたリーラのようにこの超という国で自分なりの花を精一杯咲かせることができるだろうか。桃華はふと、そんなことを考えた。
「陛下、私は陛下がお許し下さるならば、この花のようにこの国で自分の花を咲かせてみとうございます。陛下のお側で―」
 語尾は震え、涙声になった。
「私は陛下をお慕いしております」
 このひと言を口にするのは、流石に勇気を要した。だが、今この瞬間言わなければ、きっと一生後悔することになる―、桃華は真剣な眼差しで彩鳳に訴えた。
 桃華の泣きながらの告白に、彩鳳の瞳が揺れる。それは、さながら夜空を流れる星のようであった。ハッと打たれたような表情で彩鳳は桃華を見た。
「朕も、そなたを心から愛しているよ。桃華」
 泣きじゃくる桃華は、ふわりと逞しい腕に抱きしめられた。
「そなたがどのような花を咲かせるのか、朕はその行く末を楽しみに見守ろう。朕の側にずっといて欲しい、最愛の后よ」