仙境綴り(せんきょうつづり)2~梨羅の姫君~
「桃華の父上はなかなに優れた政治家だと専らの評判だが、桃華にとっては、いかなる父上だったのだろう」
突然に訊られ、桃華は戸惑ったが、すぐに応えた。
「兄たちには厳しい父でしたが、私たち娘には優しかったように思います。ただ、我が儘を言って女官を困らせたり、乳母の言うことを聞かなかったりしたときには厳しく罰せられましたわ。女子だからといって、善悪の区別はきっちりと教え込まれましたし、殊に他人(ひと)に迷惑をかけるようなことだけはしてはいけないと教えられて育ちました」
「なるほど」
彩鳳は頷くと、所在なげに寝台の傍らに立つ桃華に手招きした。桃華は、これにも躊躇った。
「おいで」
が、皇帝の意に逆らってはいけないとは散々言い含められている。桃華は恐る恐る彩鳳の方へと近づくと、その傍らに浅く腰掛けた。
その時、桃華は彩鳳の顔色が冴えぬのに気づいた。枕辺の卓にある燭台の灯りに浮かび上がる皇帝の顔色は常になく悪かった。
「どこかお身体のお具合でもお悪いのでございますか」
控えめに訊ると、皇帝は淡く笑った。
「揚と我が国の国境(くにざかい)が何かと騒がしいそうだ。彼(か)の国はさして大きくはないが、砂漠を自由に駆ける砂漠の民から成り立つ国家、たとえ死の砂漠を挟む位置にあるとは申せ、油断はならぬ」
揚国と超は広大な砂漠を挟んで隣り合っている。砂漠そのものは揚の領土になるが、超の国境と接する間際には小さいながらもオアシスがあり、両国の国境守備の兵たちの屯所があり、常に兵が駐在している。恐らく、その辺りで不穏な空気が漂っているのだろう。羅と超ほどではないが、揚と超も長らく友好関係を保ってきているはずだ。
「平和続きの世ならば、朕のような者にも辛うじて世を治めることはできるが、ひとたび戦争となれば、それも難しい。戦は国を人を疲弊させるだけだ。できれば、無用な争いをせず、無駄な血を流したくない―、こんな朕の考えはやはり一国の皇帝としては物足りないのだろうな」
彩鳳の声は心なしか沈んでいる。桃華は首を振った。
「陛下は殊に学問にご造詣が深くていらっしゃいます。国民は皆、陛下の御事を賢帝―遠き昔の世にこの地に降臨した初代隆治帝(りゅうちてい)の再来だと讃えています。陛下が民草をお思いになるお優しき心は、皆がよく存じております」
超は当代の彩鳳で既に十数代めを数えるが、初代皇帝隆治帝、隆宗は伝説の中の人物で、あまたの諸国を平定し動乱の世を終わらせた英雄だと今も讃えられている。
桃華の真剣な口調に、彩鳳は苦笑混じりに言った。
「朕はただの平凡な一人の男だ。間違っても、そんな風に讃えられる男ではない。学問に造詣が深いとそなたは申すが、幼いときより武芸が苦手なだけのこと。先代である父にもよく一国を統べる皇帝たるもの、国の命運を定める戦に赴く皇帝親征が必要なるときもあるに、矢の一つも満足に扱えぬとは何とも不甲斐なき奴よとよく叱られものだよ。見かけがこんな風だから、武芸もたしなむように思われてしまうけれど、現実はからしき駄目だ」
確かに彩鳳は長身で逞しい。その外見だけで、桃華も初めは武人のようだと思ったのだから。だが、彩鳳が殊更自分をそんな風に言うのが桃華は哀しかった。
「そんなことはありません。私は陛下ほどの優れた方はいらっしゃらないと心より尊敬申し上げております」
つい強い語調になり、桃華はハッとして手で口許を押さえた。どうして彩鳳が自分を卑下するのか判らない。彼が優れた為政者であることは内外にも知れ渡っている事実なのだ。
「―!」
その刹那、桃華は小さな悲鳴を上げそうになった。彩鳳が突如として桃華を抱きしめたのだ。あまりに突然の成り行きに、桃華は咄嗟にその逞しい腕から逃れようと身をよじった。桃華の抵抗に、彩鳳がふと我に返った面持ちになった。
「―私は真にそなたが思うような男ではない。これで良く判っただろう。そなたを娘として迎えたなどときれい事を並べておきながら、約束一つ守れぬ男なのだ」
彩鳳はそう言いおくと、桃華の身体を突き放すように向こうへと押しやった。
そのまま無言で後も振り返らず、寝室を出てゆく。彩鳳の大きな背中に濃い孤独の翳りが滲み出ていた。皇帝の孤独な後ろ姿を桃華は切なく見送った。いつしか十七歳の少女の良人への淡い恋慕の想いは、激しい恋の炎へと変じていた。
その数日後。
桃華は奧宮の庭をそぞろ歩いていた。奧宮とは即ち後宮の庭園を指す。その日はそろそろ初夏から本格的な夏へと季節がうつろおうとする、暑い昼下がりであった。基本的に、この国の夏は蒸し暑くはない。陽差しはある程度は強くはなるけれど、湿度は低く、気温も三十度前後の日が多い。夏だけに限っていえば、過ごしやすい気候だといえるだろう。木陰へゆけば、吹く風はひんやりとした冷たさを含み、快適な涼しさを体感することができる。
桃華の生まれ育った羅の夏は、かなり蒸し暑くなる。気温も一年を通じて高めで、冬の寒さが厳しい超に比べて、温暖な気候だ。その点、羅は暮らしやすい国だった。
今、桃華は侍女も連れず、一人で庭を散策していた。数日前、突然桃華の寝所を訪れてからというもの、良人である皇帝は桃華の許に来ることがふっつりと絶えた。昼間に来ることもなく、どうも意識的に避けられているようでもあった。やはり、閨でのやり取りが皇帝の気に障ったに相違ない。
女官たちは今度こそ皇帝の夜のおなりも度重なると意気込んでいたにも拘わらず、肩透かしを喰らわされた様子で、後宮はまた以前のようにひっそりと静まり返った。桃華は沈みがちな心を持て余しかね、部屋で鬱々としているのも余計に気が滅入るので、女官たちには内緒でこっそりと部屋を抜け出したのだ。
庭園でもかなり奥まった場所には泉水がある。そのほとりにはリーラの樹が一本植わっていた。大きな樹が緑の枝葉を繁らせ、いかにも涼しげな木陰を作り出している。桃華はその快適な場所に、恋い慕う男性の姿を認めた。重なり合う緑の葉たちの間から眩しい陽光が差し込み、風が吹き抜ける度に光の網が
地面で揺れる。
「陛下」
そっと背中越しに声をかけると、泉のほとりに佇んでいた皇帝がつと振り向いた。皇帝の秀麗な貌(かお)にかすかな愕きの表情がよぎる。やはり、自分はこのひとに疎まれているのだと、桃華は改めて思った。
「何ゆえ、私をお避けになられますの?」
桃華は訊ずにはおれなかった。皇帝李彩鳳はその問いには応えず、視線を泉に向けた。短い沈黙が二人の間に重たく横たわる。
ふいに涼しい風が二人の傍らを吹き抜け、泉の面が漣(さざなみ)立った。彩鳳は陽光を受けてきらめく水面を眼を細めて見つめていた。
「朕は臆病な男なのだよ」
突如として彩鳳が沈黙を破った。
「前の皇后が何故、亡くなったかを知っているか?」
問われ、桃華は小さく頷いた。この国へ嫁ぐことが決まった時、彩鳳の前妻のことも、彼女が流産後に亡くなったことも聞かされている。
彩鳳が水面から桃華へとゆるりと視線を移した。
作品名:仙境綴り(せんきょうつづり)2~梨羅の姫君~ 作家名:東 めぐみ