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仙境綴り(せんきょうつづり)2~梨羅の姫君~

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 皇帝は桃華のやわらかな身体をすっぽりと抱え込み、寝台に腰を下ろした。怯えきった桃華の眼に、壮年の皇帝の姿が映った。やや黄色がかった肌、黒い髪、黒い瞳はまるで深い夜から抜け出してきたかのようだ。超の国の人間は皆おしなべて皇帝のような黄色人種の外見を持つ。それに比べ、桃華の祖国羅は白色人種の国だ。桃華も髪の色こそ黒いけれど、瞳は深い湖の色を持っている。肌は白磁のように白くなめらかで、羅国の民は皆、桃華のような白い肌を持ち、髪や眼の色は金色だったり黒だったりと各々で違う。
 皇帝―今宵から桃華の良人となる李彩鳳は穏やかな笑みを浮かべて、幼い妻を見た。
「ああ、私が怖いのだな」
 彩鳳は苦笑すると、桃華から手を放したが、彼女が依然として彩鳳の膝の上にいることに変わりはない。桃華の眼にも、この男の深い眼差しに思慮と分別、穏やかな理知の光があるのはひとめで判った。彩鳳が感じ入ったように言った。
「それにしても、何と深い海のような瞳をしていることか。そなたの美しさは噂には聞いていたが」
 あからさまな賞賛の言葉に、桃華は恥ずかしさに消え入りたい心地でうつむくしかない。彩鳳の大きな手がそっと桃華の髪に触れた。
「羅の国の姫よ、何も怖がることはない。元々、この婚姻の話を持ち出したのは朕(わたち)ではなく、重臣たちなのだ。羅と超が同盟国となってはや長い。今更新たに盟約の証なぞ要らぬと申したのだが、皆頭の固い奴めらばかりでな。ここらで一度、我が国の威光を今一度羅に示しておかばならぬと言い張りおった。姫や姫の父上には申し訳ない事になったが、朕はもとより姫を人質などと思うてはおらぬ。また、やむなく妻に迎えるという形にはなったれど、それはあくまでも形式だけのこと、朕は妻ではなく、養女(むすめ)を得たと思っているのだ。心安らかにここを第二の故郷(ふるさと)と思い、過ごしなさい」
 彩鳳の言葉は心からのものであることが判る、温もりのあるものであった。桃華は少しだけ全身に漲っていた緊張感から解放された。
「不自由なことや欲しいものがあれば、何なりと言いなさい」
 しまいに言い聞かせるように言い、彩鳳は桃華をそっと膝から降ろした。
「今宵は姫も疲れているであろう。朕は別室にて寝むゆえ、姫はここでゆるりと旅の疲れを癒されるが良い」
 彩鳳は鷹揚に言うと、寝台から降り立った。
 ゆっくりと出てゆく彩鳳を桃華は茫然と見送った。彼は初夜の床で震える桃華に対して終始、紳士的な態度で接したのだ。それは、桃華が思い描いていた展開とは、あまりにもかけ離れていた。まるで真の娘に対するように優しく言い聞かせた言葉の数々は、怯えていた桃華の心をやわらかく解きほぐした。
 その夜、桃華の心に彩鳳への信頼が生まれた。実際に、皇帝は良人というよりは父か兄のように桃華にふるまい、その後も桃華に指一本触れようとはしなかった。
そんな彩鳳に、桃華は次第に魅かれてゆくようになった。だが、彩鳳はあくまでも年若い妻に対して常に隔てを置き、あたかも保護者のような態度を崩さない。それは本当にごく薄い紙のような隔たりではあったけれど、桃華にとってはけして越えられない厚く高い壁にほかならない。意思の強そうな濃い眉に反して穏やかな光を湛えた深い瞳、秀でた額、整った鼻梁、どれもが彩鳳が優れた為政者であることを示していた。
 正式な皇后に立てられてからも、桃華は良人が臣下や女官を声を荒げて怒るのを一度も眼にしたことがなかった。実際、彩鳳は文治帝(ぶんちてい)、または文宗(ぶんそう)と呼ばれ臣民からも慕われているとおり、学問や法の力で世を治め、彼の治世は既に二十年にわたっていたが、その間、戦(いくさ)が起こったことはなかった。
 彩鳳が桃華の寝室を訪れることも、逆に彩鳳から桃華に寝所に伺候せよとお召しがあることはなかったが、昼間、彩鳳は政務の合間にはよく皇后の私室を訪ね、桃華の琴に耳を傾けた。桃華は単に美しいだけでなく、教養にも優れ、特に琴をよくした。政務の疲れを癒すために、皇帝はしばしば皇后の許に来てはその琴の調べに聴き入った。
 そんなある夜、珍しく彩鳳が桃華の部屋を訪れた。桃華付きの女官たちは婚儀の日以来、初めての皇帝の夜のおなりににわかに色めき立った。桃華が羅から連れてきた女官たちと元から超の後宮に仕える女官たちとの間には色々な確執がある。が、今夜ばかりは祖国の別なく皆が皇帝のお渡りを素直に歓び、何とかして皇后への皇帝の寵愛を盤石のものにしようと躍起になった。
 当の桃華以上に浮き足立った女官たちは、いやが上にも桃華の身なりに気を遣い、焚きしめる香から化粧にまで細心の注意を払った。しかし、桃華には、それもかえって煩わしい。
 現在、彩鳳こと文治帝の後宮は至って地味である。皇后に冊立されたばかりの陶桃華(とうとうか)の他に妃は一人もいない。彩鳳は父の死後、二十歳で即位したその年に皇太子時代からの妃であった苑氏(えんし)を皇后に立てた。その年、苑氏の懐妊が明らかになったが、苑氏は六ヶ月で流産、肥立ち良からずみまかった。以後、彩鳳は一切の女人を側に近付けようとはしなかった。
 重臣たちが諮り、国中から選りすぐった様々な美しい娘たちを後宮に入れ何とか皇帝の眼に止まらせようと試みたが、それは徒労に終わった。彩鳳はそれらの娘たちを一同に集め、あろうことか希望者はすべて里方へ帰してしまったのだ。中にはふるさとの村に婚約者がありながら、役人に無理に都に連れてこられた娘もいて、彩鳳の計らいは慈悲深いものとして、逆に皇帝の寛容さを人々に印象づけることになった有り様であった。
 従って、彩鳳には世継ぎがいない。超の重臣たちは常々この問題を憂慮していた。後嗣無きまま、彩鳳に万が一のことあれば超の行く末にも拘わる。彩鳳には姉妹はたくさんいるが、兄や弟はいないのだ。
 漸く彩鳳が若い后を迎えた今、何とか皇子をあげて欲しいと願うのは超の民なら誰もが考えることであった。が、桃華にとっては、そんな周囲の思惑はかえって疎ましいものでしかない。皇帝は桃華が嫁してからひと月、指一本さえ触れようとしないし、恐らく我が身は良人に気に入られてはいないのだと思っている。桃華自身は、思慮深く穏やかで優しい彩鳳に好意を抱いているけれど、多分、この想いは桃華の一方的なものだろう。
 その夜、女官たちの手によって念入りに身支度を整えられた桃華はともすれば沈みそうになる心を抱えて、寝室に赴いた。既に皇帝は先に来ていた。皇帝の寝台程ではないが、それでも桃華が一人で眠るには大きすぎる寝台の端に腰掛けていた。
 入ってきた桃華の寝間着姿を見、彩鳳は一瞬眩しげに眼を細めた。
「やはり、訪れるのは昼にすれば良かったかな。桃華の琴の音を聴きたくなったのだが、皆には誤解されてしまったようだ」
 やはり―、と桃華は哀しい気持ちになった。良人が訪れたのは「妻」としての桃華を求めたのではない。一体、我が身のどこが皇帝の気に入らぬのかと桃華は真剣に落胆を憶えた。三十七歳の皇帝に比べれば、十七歳の自分はあまりにも子どもすぎる。そんな幼さが疎んじられる原因なのか。
 桃華が物想いに耽っていると、彩鳳が唐突に言った。