仙境綴(せんきょうつづり)1~砂漠の花~
仙王の魅惑的な瞳が揺れ、美芳の眼を射る。まるで美しき魔に魂を吸い取られるようだ―、美芳はそう感じ、思わず眩暈(めまい)を起こしそうになった。その刹那、美芳の瞼に家の奧で寝台に横たわる母の蒼ざめた顔が浮かぶ。母の存在を思い出した瞬間、美芳は咄嗟に仙王の瞳の呪縛から我が身を解き放つことに成功した。
「―判りました。仙王様。私は生まれてから今まで十五年間というもの、まだこのふもとの小さな村を出たことはございません。しかしながら、はるか遠方の砂漠に伝わるという話を村の長老や語り部から耳にしたこともございます。そのような昔語りが果たして仙王様のお気に召すかどうかは判りませんが、どうかお聞き下さいませ」
美芳は言い終えると、仙王の瞳を真っすぐに見つめた。そのどこか挑むような眼差しに、仙王が満足げに微笑む。
「良かろう、是非、その話とやらを聞いてみたい」
仙王の反応を見届け、美芳は胸の前で組んでいた手に少し力を込めた。
「それでは、これから一つめの話をさせて頂きます」
そう前置きして、美芳は語り始めた。美芳と仙王のいるこの部屋はかなりの広さがあり、仙王の座す玉座の傍から水晶の壁際に沿って、ズラリと燭台が並んでいる。
あまたの燭台の灯りがまばゆくきらめき、妖しい王の美貌を照らし出している。幻想めいた雰囲気が、ここは別天地、人の世から遠く離れた現(うつつ)ならぬ世界であることを物語っていた。
第一話~砂漠の花―ミイラが語る愛―~
広大な砂漠を若い夫婦が二頭の駱駝(ラクダ)に乗り、旅をしていた。昆論山脈の向こうには「死の砂漠」といにしえから怖れられる魔の砂漠が横たわっている。よほどの急用でもない限り、旅人は砂漠を通る順路を選ばず、山脈を越えるか遠回りになったとしても、山裾を迂回してゆくのが一般的だ。
だが、理由(わけ)ありの旅人や隊商(キャラバン)の商人たちはかなりの困難と危険を十分承知しながらも、敢えて砂漠を横断する道筋を選ぶ。今、人眼を忍び、何かから逃れるように砂漠を旅するこの若き夫婦も恐らくは何らかの事情があるに違いないと思えた。
旅に出てから数日を経て、夫婦は二人共に疲れ切っていた。殊にまだ年若い妻の方は疲労激しく、歩く足許さえおぼつかない。そんな妻を良人は殊更労った。その日、日暮れ前にオアシスに辿り着くことができたのは夫婦にとって幸運であった。
そこは砂漠に点在するオアシスの中でも小さいものであり―大きなオアシスのほとりには定住して小さな村を形作っている人々もいた―、むろん、無人であった。
そもそも、この広大な砂漠の殆どは揚国(ようこく)の領土になる。「大都(だいと)」と呼ばれる揚の都は、この砂漠最大のオアシスの下(もと)に築かれた一大都市であり、今や伝統ある先進国羅(ら)や超(ちょう)を凌ぐ繁栄を誇っている。
地図にさえ載っていないような、ささやかなオアシスではあったけれど、それでも砂漠には珍しくはないリーラの樹が数本汀(みぎわ)に生い茂り、水辺には涼しげな木陰を作っている。砂漠の長旅で疲れた身体を休めるには絶好の快適な場所であった。
砂漠を行き交う旅人にとって、オアシスは生命綱ともいえる水を供給できる大切な場でもある。
乗っていた駱駝をリーラの樹に繋ぐと、良人は妻をリーラの樹の下で休ませた。良人がとうに空になっていた水筒に水を補給していたその時、駱駝の蹄(ひづめ)の音が響いてきた。どうやら、新たなる来客の到来らしい。オアシスに一夜の宿と水の恵みを求めてきた旅人であろう。
が、二十歳を幾つか越えたと思われる年頃の良人の顔に一瞬、翳(かげ)がよぎった。彼は偶然に一夜をこの水場で共に過ごすことになった仲間をあまり歓迎していないように見えた。
ほどなく、駱駝のいななきや声高な男たちの話し声と共に、数人のキャラバン・サライが出現した。隊商(キャラバン)の規模としてはけして大きいものではないが、それでも十代後半から二十歳ほどの屈強そうな若い男たちが数人はいた。何かの品を商う商人らしく、大小様々な荷を各々の駱駝の背にくくりつけている。
ふいに現れた男たちは自分たちの駱駝をやはりリーラの樹に繋ぐと、夫婦からは少し離れた場所に陣取った。
思い思いにオアシスの水を呑み、ひと心地ついた頃、男たちは自分たちの向かいに座るこの若い夫婦にしきりに好奇の視線を向け始めた。
男たちの不躾な視線は殊に若い妻の方に注がれた。薄物のウェールを目深に被っている妻の容貌は夜目には、はきとは判らないけれど、紗(しゃ)の被りものを通しても、整った美貌だというのは推察できた。長身の良人の方は上背もあり、見るからに逞しい体躯をしている。隊商の男たちも皆、一様に大柄ではあったが、良人は更に彼らよりも飛び抜けて高く、鍛え抜かれた身体を持っていた。
その良人の背に隠れるようにうつむく妻は、まるで親鳥に守られている雛鳥のように小柄で華奢である。美しい妻を、良人は見知らぬ男たちの眼から隠すようにその背後に庇っていた。
砂漠の夜の闇は深かった。昼間は炎熱の地獄と化す砂漠は夜には一転して、凍てついた寒さに支配される。その辺に落ちていたリーラの樹の枝を集め、良人は火を熾した。
一晩中、炎を絶やさぬのはまた、砂漠で野宿をするときの常識でもあった。火は単に暖を取るためだけではなく、徘徊する得体の知れぬ獣を近づけぬためのものでもある。
良人は大きな袋から取り出した獣の肉を干したものを炎で焙っていたかと思うと、傍らの妻に渡した。かと思えば、再び袋からパン(小麦粉を練ってのばして、薄く平らな形にして乾燥させたもの)を出して火で焼いている。その合間には妻に水を呑ませたりと傍目で見ていても、実に甲斐甲斐しく世話を焼いていた。
いささか構いすぎると思えるほどのその様子は、何かこの一組の夫婦のそれぞれの立場を暗示しているようにも思えた。到底、常の夫婦のようであるとは言いがたく、例えば―駆け落ちした姫君とその従者のようにさえ見え、傍で見る者の想像をいやが上にもかき立てずにはいられなかった。
「旅のお方」
突如として声をかけられ、良人はハッとしたような表情で顔を上げた。
「このような広い砂漠を旅する途中でめぐり逢ったのも何かの縁、私どももそちらへ行って、火に当たらせて貰ってもよろしいでしょうか」
隊商(キャラバン)の隊長と思しき男が浅黒い肌の精悍な面に人懐っこそうな笑みを浮かべていた。右頬に鋭い疵痕があるが、その穏やかな声音や表情とはあまりにも不似合いである。
良人は一瞬警戒するような眼で相手を見たが、必要以上の用心深さはかえって他人の好奇心を煽ると判断して、小さく頷いた。
「これは、ありがたい」
男が仲間たちに向かって、顎をしゃくると、たむろしていた男どもが次々と炎に近づいてきた。
炎に照らし出された男たちの顔は皆、揃って浅黒く、漆黒の髪と肌をしており、砂漠に生きる民の顔立ちをしていた。
作品名:仙境綴(せんきょうつづり)1~砂漠の花~ 作家名:東 めぐみ