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仙境綴(せんきょうつづり)1~砂漠の花~

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其の一
 昔、彼(か)の地には一つの伝説が存在した。
―東方の山奧深く、きらめく水晶の宮殿の奧に仙王と名乗る男あり。そは、名の表す如くすべての仙人を束ねる長(おさ)なり。王の中の王と謳われ、畏怖され、強大な力を持つ。その大いなる力、一国をもたった一刹那(ひとせつな)の中に滅ぼさんとするほどの強大なものなり。仙王は麗しき容貌を持ち、その微笑み、何人をも魅了する―


 一人の少女が緑深き山道を登っていた。ここは昆論(コンロン)山脈の山道を深く分け入った高地である。峻険な山頂近くにしてはそぐわないほど濃き緑が回りを取り囲み、清らかな流れが頂(いただき)から流れてくる。うっそうと枝葉を重ねた樹々の隙間から細く陽差しが洩れ、遠くで小鳥のさえずりが聞こえる他は物音一つない静寂に満たされている。
 この辺りは滅多にふもとの村人たちも訪れることなく、人々からは「仙境」、即ち人ならぬ仙術を自在に操ることのできる仙人の住まう場所として、ひそかに畏れられている。なるほど、緑濃く清らかな水のせせらぎに育まれた辺り一帯の空気はどこか人界とは一線を画した、隔絶されたものがあり、俗界を離れた清らかで、景色の優れた地であった。
 少女はそんな、どこか人の訪れを拒絶するかのような超然とした雰囲気の山中をたった一人で歩いてゆく。年の頃は十四、五歳くらい、色の白い、なかなかに整った顔立ちの娘である。
 理知的な光を宿した瞳は冴え冴えとした星の輝きを放つようだ。少女の名は美芳(メイ・ファン) という。幼い中に父を失い、病がちな母親と二人きりで暮らしてきた。一年前からふとした拍子に風邪をこじらせてしまった母親が寝つき、病状は悪化の一途を辿っていた。貧しい暮らしでは医者にもろくに診せることができず、美芳は昆論山脈の奥深くにあるという秘薬―即ち仙王の住む水晶宮(すいしょうきゅう)の庭に生えるという幻の薬草宝寿草(ほうじゅそう)を採りに出かけてきたのだ。
 宝寿草は砂漠のオアシスのほとりにも自生するというが、五十年に一度花開き、その花は白百合に酷似していて、得も言われぬ芳香を放つという。花が終わった後、椰子の実にも似た大ぶりの実をつけ、その実は砂漠の国ではデザートや時に非常食、携帯食としても珍重されるのだとも聞いた。
 砂漠ではリーラと呼ばれる宝寿草のまだ花が開く前、その若葉を摘み煎じて服せば、いかなる難病をも癒しに導くと言い伝えられる。
 仙王の住まう宮殿の庭園には、宝寿草の樹が幾つもあるそうな。少女はそんな伝説に一縷の望みを託し、ふもとの小さな村からたった一人で険しい山道を徒歩(かち)でやってきた。
 少女が小川のたもとでふいに立ち止まった。喉の乾きを癒すために水を呑もうとして、しゃがみ込む。両手を水に浸すと、心地良い冷たさを指先に感じ、後は夢中で水を掬って、喉に流し込んだ。たちどころにして、身体中が潤ってゆく。
 ホウとひと息ついたその時、ハッと眼を見開いた。あっと小さな悲鳴を上げるまもないほどのわずかな間に、少女の細いうなじから下げられていた雫型のペンダントが川に落ちた。
 乙女の流す清らかな涙をかたどったペンダントは母から譲り受けた大切な宝物だ。父が母に買ってくれた唯一の想い出の品だという。透明な涙型の石はキラキラと眩しく光り輝きながら、見る間に水面下へと消えて見えなくなった。
「―!」
 突然、手を伸ばしていた少女の身体が悲鳴と共に水に落ちた。ペンダントを何とか掴もうと精一杯手を伸ばした弾みで、川に落ちてしまったのだ。
―苦しい、誰か助けて!
 美芳は懸命にもがきながら、手足を動かそうとしたが、一向に力が入らない。だが、今、ここで死ぬわけにはいかない。家には母が待っている。父が亡くなって以来、美芳を女手一つで苦労して育ててくれた母。その母のためにも、何としてでも宝寿草の葉を持って帰らなければならない。
―この昆論山の奥深くに住むという仙王よ、どうか私を助けて。
 少女が心の中で願った時、急に息苦しさから解放された。それまで彼女の身体を拘束していた水の壁の縛めが見る間に解けてゆく。ふっと呼吸が楽になったと感じたその瞬間、美芳の身体は先刻までいた場所―水の中から全く違う場所へと瞬間移動していた。


 恐る恐る固く閉じていた眼を見開くと、そこはまさに光り輝く宮の中だった。氷のように透き通った壁で取り囲まれており、床も柱も天井もどこもかしこもが、透明な輝きを放っている。
―ここが水晶宮?
 美芳は愕きに眼を瞠った。
 と、唐突に美芳の頭上から声が降ってきた。「強く私を望む者のみが私の許に辿り着ける。娘よ。そなたは今、私を心から望んだ。その願いを聞き届けてやろう」
 美芳は声のした方―少し上手の、これもやはり水晶でできた玉座に端然と座る若い男を見た。仙王の実際の年齢は定かではない。真は百五十歳、いや二百歳をもゆうに越えているとも云われるけれど、その外見は人間でいえば、せいぜいが二十代半ばの青年にしか見えないと云われる。
 もっとも、仙王は、この世の創造主にして万物の王である。この世の創世以前から存在しているという仙王の齢(よわい)を百年、二百年単位で考えること自体が誤りともいえる。仙王の存在は、到底我々人間の常識などで推し量れるようなものではない。
 光り輝くような花の顔(かんばせ)を持ち、微笑むだけで、どんな人間の心をも即座に虜(とりこ)にしてしまう妖しい魅力を持つと伝えられていた。 この若い男が仙王に相違なかった。
 刹那、美芳の白い頬が歓びのあまり上気し、賢しげな瞳がいっそう輝いた。
「仙王様、仙王様の住まわれるこのお城の庭には宝寿草の樹があると聞いております。私の母は一年ほど前から重い病で寝たままの生活を送っておりますれば、どうか母のために宝寿草の葉を少しだけ分けて下さいませんか」
 美芳の懸命な懇願に、仙王は美しい面に花のような笑みを浮かべる。
「良かろう、母想いの、心優しき娘よ。その心根に免じて、我が宮殿の庭にある宝寿草の葉を人界に持ち帰ることを特別に許そう」
「ありがとうございます!」
 美芳がその頬をいっそう上気させ礼を述べたその時、美しき王の両の眼(まなこ)がスウッと細められた。
「娘よ、但し、それには条件がある。もし、そなたがここから生きて人界に戻りたければ、私を泣かせる話、または、面白い話を三つせよ。さすれば、そなたを生きて帰してやろう」
「―」
 美芳は思いもかけない言葉に、身を強ばらせた。
 仙王の視線には、まるで少女を試すような光がある。
「もし、仙王様の御心(みこころ)に添わなかったときには、私はどうなるのですか」
 美芳が蒼白な顔で問うと、仙王は妖艶に微笑んだ。
「そなたはここで生きることになる。私の、ただ一人の花嫁として」
「私が仙王様の花嫁に?」
 美芳は愕きを隠せない。
 仙王は依然として婉然とした笑みを浮かべたまま、鷹揚に頷いた。
「私はそなたがここに来るのを待っていたのだよ、美芳。気を失いそうになるほど果てしない刻(とき)の流れを私と共に生き、語る伴侶が現れるのをずっとずっと待っていたのだよ」