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幕末・紀州藩下級武士の妻 升屋のをちえ一代記

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 紀州藩は水野様の失脚で天地動転の騒ぎになった。藩政の実権を誰が握るのか、紀州徳川家一門の家老・三浦様か、城代家老・久野様か、或いは安藤様かと疑心暗鬼が渦巻くなかで、民吉はいつもと変わらず表御用部屋勤めに精励している。をちえはその姿を見て安堵していた。
「尊王攘夷などのことに関わりでもすれば大事じゃ。伊達宗興殿は幕政改革を幕府に直訴するため出奔なさったと聞くが、将軍・家茂様も藩主・茂承様もお許しになるまいに。いまどきは、粗忽なことで動くではないぞえ」
と、をちえは民吉を前に忠告している。若者は兎角、時勢に動かされやすいものだという懸念がそう言わせている。
 伊達宗興は伊達千広(宗広)の養子である。養父・千広は、水野忠央様によって、尊王攘夷の危険思想の持ち主で藩政に専横な振る舞いをしたという罪を着せられて逮捕され、家老・安藤直裕様の所領・田辺に十年近く幽閉されたが、文久元年(1861)釈放されると家督を宗興に譲って隠居した。その翌年に千広は宗興と共に脱藩して上洛したのである。
「あの方たちは尊王攘夷の志士で、吾等とは違った道を歩んでいなさる。母じゃが心配なさることはない。吾等は紀州様の股肱の臣であることに変わりありませぬ」
と、民吉が何時になくキッパリと言い切った。
「父様もそれでこそ安心なさりましょう」
と、をちえが亡父・貞輔の位牌・即往院得岸浄生居士に手を合わせる。
 こうして吉田家の平穏な日々が過ぎていたが、文久三年(1863)二月、安藤飛騨守直裕様は領政不行届きの咎で幕府から隠居を命ぜられなさった。田辺藩都を海防の都合で遷都せよという幕府の命令に従われなかったこと、蜂須賀組田辺詰与力が安藤家家臣に身分替されることを拒否し脱藩、公儀にも直訴に及ぶなどのことが、その理由であったと、をちえにも知れている。
 更に、この年の四月二十三日田辺与力二十士全員は士分にての帰参を叶えられた。永の御暇となって以来六年七ヶ月振りのことである。
 この帰参お許しは、幕府大目付岡部駿河守様、将軍後見職・一橋慶喜様に与力衆が帰参願いを聞き届けて戴いたことによるものであったと、藩内ではもっぱらの噂である。
「冶宝様御代以来,確執を繰り返してこられた安藤直裕様と水野忠央様が共に、幕府から隠居謹慎を命じられなすったことは、皮肉なことでありますのし。権勢をほしいままないなさった結果、天罰が下ったものでありましょう」
と、をちえは自業自得ではなかったかと突き放すように言った。
「田辺与力の方々は紀州本藩の直臣から安藤家に移籍され陪臣となられることを拒否成され、家名断絶、浪々の身と成られたが、六年七ヶ月の歳月を経て、この度見事に御切米四十石を下し置かれ、小十人小普請を仰せ付けられなさった。見事なものともっぱらの評判で沸いております。一橋慶喜様の御計らいとか」
と、民吉は、田辺与力に感嘆している。
「将軍御後見役の一橋慶喜様のお計らいだと、付家老様も反対できますまい。藩主・茂承様を超えて将軍家のご判断同然でありますからのし」
と、をちえは藩政のことに気を移して居た。気掛かりなのは紀州藩のこれからのことである。将軍・家茂様が紀州藩主であられたのだから紀州藩は幕府の威光には逆らえまい。さすれば無理難題が振りかかるやも知れぬ。をちえには幕府がこの御時勢を乗り切る力は最早ないという思いがつのっていた。薩摩藩御用を勤める江戸枡屋の冶信からの内密の知らせで討幕の気運が高まっていることを知っていたのである。
「異国船が襲ってきているのですから、各藩が幕府に力を合わせて戦わねばならないのですが、幕府はその権威を失い、長州、薩摩などが自力で戦っていなさる。紀伊の海防にこの藩も多大なご苦労をなさっている。このときに、天誅組の騒乱を鎮圧するために藩も出兵成されたり、尊王攘夷とは厄介なことでありますのう。昨年の十一月二十七日に攘夷の勅命が下され、将軍・家茂様が誓詞をお出しになったということですが、開国よりありませぬよのし」
と、をちえは幕府の本心を見通している。
「一橋慶喜様が将軍後見職に、松平慶永様が政事総裁職にお成りになったのですから、幕府も変わりましょう」
と、民吉は期待を寄せている風であった。
「薩摩の島津久光様が推挙成されたのでありましょう。兄からの便りで承知していますえ。井伊直弼様に排除されなすったお方たちでしょう。公武合体と開国の舵取りをなさると聞いておりますでのし」
と、をちえにしては珍しく事情に明るいことを口にした。
「母じゃには叶いませぬ」
と、民吉は、幕政にも藩政にも通じているらしい母が眩しいようであった。この年文久三年(1863)十二月二十三日、民吉は表御用部屋書役を仰せ付けられ、御足高十石を下し置かれる。時に二十六歳であった。

             七
 翌、元治元年は紀州藩にとって困難極まる事態の幕開けであった。五月二十三日藩主・茂承様は大坂表守衛のため大阪城に入城された。吉田家にとっても苦難の始まりである。
 民吉は同年八月二十二日大坂表へ相詰める様仰せ付けられ二十三日出立する。大坂表にて相詰めていた処、九月には藩主御帰国仰せ出され御供仕って帰国するも、又々、大坂表御用に付相詰め、十二月十九日御用済にて帰国する。
 藩主のこの慌しい動きは、この年八月二日幕府が諸侯に長州藩征討令を発し、紀州藩も動員されたことが原因と成っている。藩財政困窮の中で膨大な入費を抱えることになった。
「藩主・茂承様は当初、長州征伐の総督に幕府から任命されなすったが御病弱故、尾張藩主・徳川慶勝様に変更なされ、旗本後備を命じられなさった由、実不実は存じませぬがのう」
と、をちえは言葉を濁していたが、紀州藩はこの度の征討に乗り気ではないのであろうと判じていた。
「藩内ではこの度の長州征伐をどのように受け止めておられるのかのし」
と、民吉に尋ねる。すると、
「安藤直裕様が、隠居御許しの上出陣したいと願い出られ、藩庁では困惑したようですが、安藤家当主の直行様が御幼少であるので後見役として和歌山出府を御許し成されたのことです」
と、意外な言葉が戻って来た。五月に御許しが出たというのであるから隠居謹慎から一年三ヶ月のことである。
「隠居謹慎は水野忠央様も御同様でありましょう。水野様は如何成されて居るのかのう」
と、をちえは藩庁の意向が気にかかるようであった。お二人が共に隠居謹慎御免になれば、再び確執がはじまるやも知れぬと、をちえは不安であった。
「水野様も五月に隠居謹慎御免になられたとの事ですが、復職はなさらぬと聞き及んでいます。隠居なされて既に四年が過ぎておりますし、御当主・水野忠幹様がご立派に付家老の御役をお勤めです。先般の天誅組の乱でも江戸から新宮に帰着成され本宮へ出陣なさいました」
と、民吉はをちえの不安を打ち消すかのように言った。 
「安藤直裕様は家老に返り咲きなさったのですね。さても凄い執念でありますのし。水野忠央様は既に退隠成されておりますれば、安藤様はお心安らかでありましょうのう」
と、をちえはお二人の勝負は決着したものと安堵し、民吉にとっては幸いなことだと思っている。