幕末・紀州藩下級武士の妻 升屋のをちえ一代記
六
勇次が引継いだ枡屋は紀州枡屋の屋号で業者仲間への披露を済ませ、本店を和歌山区丸之内に置いた。をちえが、旧藩主・冶宝様やその四女で先々代藩主・斉順様の正室となられた豊姫(鶴樹院)様と枡屋治平との旧縁を辿って、紀州枡屋の売り込みを図ったことは言うまでもない。
順調な滑り出しにをちえも勇次も満足であった。勇次は諸藩各地の問屋仲間との話し合いを精力的にこなし、紀州枡屋の旗揚げを認知してもらえるまで漕ぎ付けていた。ところが、師走に入って思いがけない大事件が起きた。
貞輔が下城し帰宅する途中で何者かに切りつけられたのである。お堀端の暗闇の中であったし、何れも覆面をしていて人相はわからなかったが、襲って来た相手は三人であったという。
「吉田貞輔か」
と、正面から誰何した声に驚いて立ち止まると、背後から別の人影が切りつけてきた。それをかろうじて切り払ったとき、堀端の木蔭に潜んでいた三人目の男が貞輔の脇を狙ってきたという。このとき、城から四,五人の藩士が出て来た。彼らがその場の異常に気付いて、大声を上げて駆け寄ってきた。それに驚いた三人が抜き身の刀を手に持ったまま逃げ去ったという。貞輔は肩や足など数箇所に傷を負っていたが藩士たちに助けられて帰宅した。
御留守居番襲撃の事件は藩内に電撃のように拡がった。何者の仕業であるかと言う詮索が口々に伝えられたが、結局は解らずじまいであった。藩の上層部は藩内の亀裂を怖れて緘口令を敷いたのである。
貞輔は傷の手当をしていたが数日後、をちえに看取られて死亡した。時に嘉永六年十二月十日である。藩は病死としてこれを処理し、事件とのかかわりは不問に付した。をちえは、このことに不満であったが、藩庁に異議を申し立てることは差し控えた。そのようなことをしても無意味であるばかりか、却って貞輔が「士道不覚悟」の汚名を着せられ、吉田家は家禄没収の上、断絶となるは必定だったからである。藩の今回の処置は温情であったと思い直している。
だが、夫・貞輔をこのようなかたちで失った嘆きは、をちえから生きる力を奪うほどに深刻だった。をちえは悲しみのために夫・貞輔の後を追いたいと思うこともあったが、吉田家と枡屋を守らねばならないという使命感がそれを退けていた。この頃、をちえの枕辺に実父・冶平と舅・小兵衛が立った。
民吉が跡目相続を認められたのは嘉永七年(1854)二月十五日である。この相続によって、切米十石を下し置かれ、小十人小普請を仰せ付けられる。民吉は十七歳であった。貞輔の死後、家督相続までに二ヶ月余の空白がある。このようなことはこれまでにはなかったことである。襲撃事件が物議を醸したことは明らかであったと、をちえは思った。
この年三月三日には、日米和親条約が締結される。尊王攘夷の嵐も同時に吹きまくり世情は騒然としている。九月十六日にはロシア使節プーチャーチンの乗艦が大坂湾内・天保山沖に碇泊、十月三日には加太浦に碇泊する。これを受けて紀州藩は海防のため友ケ島奉行を任命なさった。をちえは不安であった。翌安政二年五月、紀州藩は友ケ島に台場を築造する。
「江戸でも薩摩でも、長崎や長州でも台場が築造されています。枡屋もその用材調達や人夫手配の仕事を戴いておりますです」
と、勇次は和歌区丸の内の枡屋を訪ねてきたをちえに話している。
「それは結構なことじゃのし」
と、をちえは相槌を打つ。
「江戸の枡屋とも話し合ったか・・・」
と、尋ねると、
「競っておりますです」
と言う答えであった。
「相手方はどう思っていなさるか、枡屋同士の張り合いではのう」
と、をちえが訝ると、
「商いの中身次第です」
と、勇次は自信を見せている。この分では勇次の商いも順調に行くだろうと、をちえは安心であった。
「今日、そなたを訪ねて来たは、民吉のために力を貸してくださらんかお願いがあってのことで・・・」
と、切り出した。勇次が改まると、
「ご時勢が不安だで、京、大坂など紀州様の御屋敷事情やその地の様子など詳しく調べてやってくだされ、このところ、藩のお侍たちがそちらのほうに出仕なさることも多くなりましてのう。事情に詳しくなければお勤め不自由ばかりか命をも落としかねませぬ。そなたは商人である故、見聞も広いことでありましょう。よろしくお願いできませんかのし」
と、をちえが用件を述べる。勇次は緊張した面持になった。
時は安政五年(1858)に移り、六月十九日日米修好通商条約が調印された。これをめぐっては朝廷との間で軋轢を生じる。六月二十五日紀州藩主・慶福を将軍・家定の継嗣に定める。この二件は大老・井伊直弼の政治判断であった。開国は孝明天皇の攘夷の意向に背くが、薩摩藩主・島津斉彬等の開国派の納得するものであった。慶福の将軍継嗣は、一橋慶喜を将軍に擁立しようとした島津斉彬等の画策を退け、井伊大老が南紀派と呼ばれる紀州藩家老・水野忠央と組んだものである。
こうした事はをちえの耳にも入っている。勇次が知るところを逐一伝えていたのである。
「水野忠央様は冶宝様亡き後は権勢を振るわれて、随分と勝手なことをなさっていたようですが、今回はそれを極めなさった」
と、をちえは感嘆とも嘆息とも見分けのつかない顔で言った。
「紀州様はこれでまずは安泰でしょう」
と言ったのは勇次だった。をちえが訝ると、
「安藤様と水野様の抗争は止みましょう。水野様の天下になりましょうから安藤様は雌伏せられ、もっぱら田辺与力の始末に奔走されることでしょう。幕府のお力を借りられねばならないことも起こるやも知れませぬ」
と、勇次は、横須賀組の一件を掻い摘んでをちえに話した後、
「家康公から頼宣公に賜った御先手組直参を安藤家家臣に身分換えすることをめぐって、烈しい抵抗にあっていなさる。田辺与力二十家が永の御暇を願い出て浪々の身になりなさったは、随分と以前のことでしたが、いまだに解決していませぬ」
と、顔を曇らせている。
「安藤様も大儀でいらっしゃるのし」
と、をちえは同情している。
「民吉のお勤めも難しくなろう。安藤様の後ろ盾があってのことだったからのう」
と、をちえの心配はわが子・民吉に及ぶ。
「民吉殿は表御用部屋のお勤め故、藩政の機密にも触れなさるでしょうから水野様のご支配下では何かとご苦労がおありでしょう」
と、勇次は気遣っている。
時は安政六年八月のことで和歌地区にはコレラが流行し、藩は陰気退散のため町人に踊りを命じ、町ごとに組合踊りを始める。それぞれに衣装や趣向を凝らして町を練り歩く。をちえも勇次も見物に出掛ける。
「にぎやかなことじゃのし」
と、をちえは、先ほどまでのうっとおしい話を忘れたように二人は楽しんでいた。
ところが、この月の二十七日には井伊大老による慶喜擁立派の粛清が始まったのである。幕政の実権を握った井伊大老のこの暴挙は、幕府の威信を回復しようとするものであったが、多くの反感を買い、翌安政七年(1860)三月三日井伊大老は桜田門外で暗殺された。この事件の後、六月四日紀州藩家老・水野土佐守忠央は幕府から隠居申し付けられ領地の新宮に謹慎を命じられた。
作品名:幕末・紀州藩下級武士の妻 升屋のをちえ一代記 作家名:佐武寛