幕末・紀州藩下級武士の妻 升屋のをちえ一代記
この年の長州征伐では、昨年八月十八日の公武合体クーデターで京を追われた長州藩に、勅命により三十六藩十五万の兵が押寄せ、長州藩保守派政権が降伏する。紀州藩兵は無傷で帰還した。
「この戦では、薩摩の西郷吉之助とか申す者が総督参謀にて長州への処罰を寛大にし、幕府はご不満であった由、幕政も薩摩の意のままと言うことでありましょうかなもし」
と、をちえは風聞にいらだっていた。
「一橋慶喜様や松平慶永様が幕政の実権を握っておられることも将軍・家茂様には気の重いことでありましょうのう」
と、をちえは重ねてため息を漏らしている。井伊派によって将軍に推挙された家茂様が一橋派に補佐されるという皮肉な結果になっている。
「薩摩が幕政を握ったという者も居ます」
と、民吉が応じている。
長州征伐に勝ったけれども勝者は誰かをめぐって紀州藩では、幕府が勝ったのか、幕府が勝ったとしても一橋派の勝利で、井伊大老に推された将軍・家茂様の勝利ではない、薩摩が処罰を決めたのだから薩摩の勝利だ、いや、朝廷の勝利だと、藩士の間で激論が戦わされていた。
「民吉はどのような意見を持って居るのかえ」
と、をちえが尋ねると、
「徳川家に対抗する西国雄藩の力は最早侮れません。長州はアメリカ、フランス、オランダと下関で戦い負けましたが、それから多くの教訓を得ています。薩摩はイギリス艦隊と交戦し敵を退却させました。
薩摩と長州が連合すれば他の西国諸藩も呼応するでしょう。この度の長州征伐は薩摩が朝廷の御味方をしましたから他の諸藩も追従したのでしょうが、このままで長州が引き下がるとは思えません。朝敵の汚名を必ずや返上するでしょう。そのときが来れば討幕の勢いが強まるでしょう。紀州藩は将軍家と行動を共にせねばなりませんが、後見職であられる慶喜様がどのように動かれるか、今はご様子を見るしかありませぬ」
と、民吉は秘めていた心を明かすように言った。これにはをちえが驚いたが、わが子の成長振りに感心もした。
「民吉は洋学を勉強したいと言っていたわな」
と、をちえは思い出したように言った。
民吉のこの予感は不幸にも的中した。かねて元治元年(1864)十二月十五日回天義挙の功山寺挙兵を行った高杉晋作等が、翌、元治二年(慶応元年)(1865)四月には倒幕派政権の下で、西洋式軍制を採用した奇兵隊、藩兵を率いて幕府に反撃を開始する。幕府はこの年五月十二日紀州藩主・茂承を征長先鋒総督に任命した。
翌、慶応二年(1866)六月七日幕府艦隊が周防大島へ砲撃を開始し
第二次長州戦争が始まる。この戦争では、一月二十一日に薩長同盟を結んだ薩摩は出兵を拒否し、幕府軍は惨敗する。紀州藩兵は、安藤直裕が前軍総督となって石州口に出陣したが、弾薬を使い果たして江津まで退却した。このため安藤直裕は罷免される。
これより先、元治二年(1865)二月二十二日藩主御参府に付、民吉は御供仕り、京都へも立寄り、同所に二日逗留、江戸まで御供相勤める。再びの長州征伐に藩主・茂承様が出陣なさる御準備のための御参府であった。この戦いは幕府にとっても紀州藩にとっても無惨な結果になって、以後、藩論は鼎の湧くように騒々しい。
一橋慶喜様が元治元年(1864)三月二十五日勅命により禁裏守衛総督・攝海防御指揮になられて以来、将軍・家茂様と慶喜様は同列に並ばれた。これが事態を複雑にしたのである。将軍擁立に於いては仇敵の関係にあられたことが事毎に災いとなった。国家有事に対する対処の方針も自ずから異なっておられたのである。
まことに不幸なことには、征長本営を大坂に置いて指揮に当たって居られた家茂様は慶応二年(1866)七月二十日大坂にて薨去された。翌日、征長停止の勅命が出る。しかも、十二月五日慶喜様は孝明天皇から将軍宣下を受けられ、十二月二十五日孝明天皇は薨去された。政局は一年の内にめまぐるしく変わったのである。それは国政流動化の兆しであった。紀州藩では泥縄式に藩兵制改革に着手する。
この改革を巡って藩内では抗争が起きる。尊王か佐幕かと言った路線の選択が藩士の心を揺すっている。
「これからは薩長土肥が朝廷を担いで倒幕に出るでしょう。慶喜様は公武合体体制を望んで居られるようですが、それは一つの倒幕なのです。関東の譜代大名が占拠する幕閣は徳川家の純粋な継続を望んで佐幕派を形成しています。慶喜様は西国の外様と関東の譜代の両面の敵に立ち向わねば成りませんのし」
と、をちえは真剣な面持で民吉に話している。をちえの事情通は二つの枡屋から知らせを受けているからである。
「幕閣に組しなされば、外様を刺激なさるでしょう。禁裏守衛総督であられるから朝廷に従わねばなりませぬが、朝廷は外様を寛容に受け入れられています。薩長の力は侮ることが出来ませぬ。京では外様が跋扈し、幕府は大坂表に陣取って居られる。京の守衛に幕軍を差し向ければ戦になるやも知れませぬ。そうなれば倒幕派は討幕に出るでしょう。討幕の口実を外様に与えてはなりませぬ。枡屋はそれを気遣っております。伏見は大層物騒な様子だといいます」
と、をちえは重ねて発言した。余程心配なようである。民吉は頷いている。
民吉は元治二年二月には雲上譜掛をも仰せ付かり、出精相勤め、翌、慶応二年三月二十五日並の通り御足高を下し置かれてた。だが、同月晦日雲上譜勤めはその儀に及ばず、御行列御用相勤めるよう申し渡される。御役替が頻繁に起きる。此度は渡辺主水・藪九郎太郎へ仰せ出された御馬飼之儀、心得相勤めるよう申し渡される。民吉のみではなく、多くの藩士が御役替に動揺していた。
この年六月七日には再度の長州征伐が始まっている。九月五日には半知令が出され藩士は生活困窮に陥っていた。収入が半分に減らせれるとは実に乱暴なことであるが二度にわたる長州征伐や長大な海岸防御のために藩財政は逼迫していたのである。
「暮らし向きがかように苦しくなっては、御長屋も火の消えたようなものじゃなもし。脱藩為さった方も居られる由、武士の身分も軽くなったものじゃのし」
と、をちえは台所不如意を託っている。枡屋からの援助は続いているが、半知はさすがにこたえる。俸禄のみで暮している藩士の女房たちは近年の物価高で遣り繰りも限界に来ている。それに出陣、出張、使役が度重なって藩士は疲弊している。
時代の動く方向は定かではない。暗雲がたなびくような不安の中で突然、「ええじゃないか」が尾張・三河のあたりに起こり、和歌山にも流れ込んできた。天からお札、小判、木像など降り、人は三味,太鼓、笛、鼓、かね、鈴などで囃しながら変装して踊り歩く。天下り物があった家々では、注連縄を引き、鏡餅、お神酒、魚などを供え物する。
「神主までが踊っている」
と、民吉は信じられない様子だった。
「どなたが、このようなことを流行らせたのかなもし」
と、をしえも不気味に思っている。
「藩では取締りを為さらんのかなもし」
と、をしえが不思議に思っていると、
「町内ごとに仕切役を命じております。暗い世相を明るくするためにお許しになっているのです。まつりごとから目をそらせるためでもありましょう。世直し様が天から降ってこられると町の衆に信じてもらわねばなりませぬ」
作品名:幕末・紀州藩下級武士の妻 升屋のをちえ一代記 作家名:佐武寛