小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

幕末・紀州藩下級武士の妻 升屋のをちえ一代記

INDEX|7ページ/17ページ|

次のページ前のページ
 

「扱う商品や仕事を変えれば分家させてもいい」
と、冶信はをちえに押されたように折れて出た。をちえは安堵と不安の入り混じった感情が胸に来るのを覚える。
「よう決心なさった。しかし、その条件は無用でしょう。商いは御用達先の藩のご都合で決まること。兄と勇次が競争することも融通しあうこともあって商いは繁盛しましょう。兄にその気構えがあって欲しいとねがっとるでのし」
と、励ますように言った。
 をちえは、この取り決めを枡屋の主だった者に廻状で知らせることを求め、各地の枡屋の店を本家と分家の何れに属させるかを現地の意見を聞いて決めることにした。をちえは、そのための根回しを江戸への道中で済ませた格好である。枡屋の古老たちは、をちえの話を先代・治平様の意向として受け止めていたのである。それには、当主・冶信の独断で横暴なやり方を嫌悪していた背景があった。
 をちえはこの後数日、枡屋に滞在し、御用達先の各藩屋敷にも挨拶を済ませ、江戸を出立した。既に初秋の風の吹く九月初めのことである。この度は、東海道を京へ上る。お供に枡屋の勇次と手代が加わっていた。道中、相州江之嶋弁財天、遠州秋葉山、江州石山寺に立寄る。
 をちえには、堀田の父・小兵衛に対する懐かしい思い出がある。小平衛が枡屋に訪ねてきたときは、父の膝に乗って話を聞いていたり、娘盛りには直接話を交わしたりした。小兵衛が江戸と紀州を往還した旅の話はとりわけ興味を誘った。小兵衛が道中、立寄った名所、旧跡に、江戸への往還で、自分も辿ることが出来たので、をちえは嬉しかった。長年抱いていた夢をこの度の旅で果たすことになった。小兵衛への思慕がよみがえっている。
 勇次は年の離れた弟であるが、日陰育ちの暗さはなく、活発な一人前の男に見えた。をちえは勇次の母親・きぬと文通を欠かさないで居た。父・冶平から、きぬと勇次に目をかけてやってくれと、秘かに頼まれていたのである。道中、をちえは、
「御鷹狩りのように射止めるか、牛のよだれのように細く長くやるか、どちらを選ぶかは勇次の考え次第だが、老舗の枡屋を絶やさないように信用の種を蒔く人になってくださいな。ご贔屓筋がなければ成り立ちませんよ。武家がお相手の商いですから武家の生活習慣に精通しなければなりませんが、それは私が教えて進ぜましょう程に安心していなされ」
と、勇次に商人になる心得を話した。
 恙無く紀州・和歌山に戻ったをちえは、勇次と手代には宿を取らせ、下男・卯吉には実家で暫く休養するように計らった。をちえからこの度の江戸枡屋での一件を聞いた貞輔は、
「このご時勢では、西国雄藩と関東の譜代大名との間で幕政をめぐって争いが激化するであろう。御用達商人が日和見を始めているらしい。枡屋を二つに分けるのは賢明なことではないか」
と、言葉少なであった。をちえが、
「勇次をお前様に会わせたいが・・・」
と、誘いを掛けると、
「会ってみよう」
と、貞輔は乗ってきた。その気安さは貞輔がをちえを信頼しているからか、興味を持ったからかは定かでないが、藩の調物や認物を仕事としてきた習性があったからでもあろう。人には会ってみなければ解らないという思いを持っても居たであろう。
 勇次が貞輔と会ったのはそれから数日後である。場所は紀州枡屋の茶室であった。をちえが亭主を務める。茶の湯で心を静めた後、枡屋の将来について、をちえが存念を披露し、勇次と貞輔が聞き役に廻っていたが、この席にもう一人、勇次を支える人物が居た。それは冶平に仕えてきた番頭の番助である。番助は冶信の代になって隠居していたが、をちえが呼び出したのである。
「番助が亡き父・冶平に代わって勇次を導いて呉れよう」
と、をちえは番助を呼び寄せた理由を、
「老舗・枡屋の風格を取り戻すため・・・」
と、言った。兄・冶信の時勢に聡い商いのやり方には反発と共に高いリスクを感じていたをちえが、リスク・ヘッジを勇次に求めていた。それが風格と言う言葉になって表現されたようである。昔ながらの枡屋を残して置く安全パイを持とうとしたのである。
 紀州藩ではこの年、嘉永六年(1853)十一月二十四日に家中へ武器手当金を下付し、また、家老・久野丹波守純固以下二十三名に海岸防御御用掛を命じている。異国船に眠りを覚まされたこの国では幕府に対する信頼は著しく低下し、各藩では藩政のあり方をめぐって内紛が起きている。幕府に従うのか、幕府に距離を置くのか、政論が烈しくなり、勢力争いが絡んだ私闘に発展している藩もある。
 貞輔が勇次と会ったのはまさにこのような情勢の中で、貞輔を感心させたのは、商人の感覚と情報の凄さである。
「枡屋は諸国の事情に詳しい。その中から生き残る道を探り出す能力に長けている。一つの藩に縛られた吾等、藩士では左様には参らぬ」
と、貞輔は不自由を託つように言う。
「小兵衛様は江戸詰切であられたから、諸国の事情に詳しくなられた由、諸藩の方々とも懇意になられ、諸藩の内情にも通じておられた。枡屋も御蔭を受けていました。父・治平は商いで知った諸国の事情を小兵衛様にお伝えしていました。もちつもたれつのお付き合いだったようでしたのし」
 をちえは、夫・貞輔も舅・小兵衛様のように江戸詰だったほうが良かったがと思っている。
「兄・冶信にも、小兵衛様のようなお方がそばに居られたら良かったのじゃが、薩摩や長州などに加担するようになって関東の譜代藩とは商いが疎遠になった由、困ったことでのし。勇次には万遍な商いをしてもらいたい。ご時勢はどちらに転ぶか解りませんからのし」
と、をちえは勇次を見詰めている。
「父・小兵衛は祖父・勇右衛門の婿養子で母には頭が上がらなかったが、その分、踏ん張って家格を上げようと努力したと言っていた。祖父は当時、肩衣御免の奥役人で御切米十三石を下し置かれていなさったということだ。父は晩年、御留守居番を仰せ付けられ御足高二十五石、御切米十五石を下し置かれなさった。時に五十四歳であられたが、私が御留守居番を仰せ付かった三年前、私は五十三歳だったから、ほぼ同じ晩年よのう。父は六十三歳まで存命されたから私もその年までは生きていたいものよ。祖父にあやかれば六十九歳だがのう」
と、貞輔は、をちえが父・小兵衛のことを言ったのに釣られたように言った。枡屋のことに口を出す気はなかったのであろう。をちえが勇次を見込んでいるのだからそれでいいではないかといった素振りであった。
「勇次のことは気に入ってくださったかな・・・」
 と、をちえがたまりかねて問うと、
「枡屋のこと故、意見をはさむこともなかろう」
と、素っ気ない。
「藩御用を勤めることになろうから、その筋から見てどうか・・」
と、をちえが重ねて尋ねると、
「勘定奉行の久坂殿に紹介しようか」
と、単刀直入の答えであった。貞輔はをちえが最も望んでいることを知っている。
「それは願ってもないありがたいことです」
と、番頭の番助が畳に額をつけるほど頭を下げた。勇次は勿論、番助に倣っている。
 帰宅して、をちえが、勇次についての印象を聞くと、
「好感の持てる青年だな、これまでの日陰の苦労を感じさせない明るい男だ。あれなれば安心して枡屋を任せられよう」
と、貞輔は合格点を与えた。