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幕末・紀州藩下級武士の妻 升屋のをちえ一代記

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「いまは、そのようなことに構って居れぬ事情が藩にあることは解っていよう。藩内の抗争を収めることが何よりの大事じゃ。まして、薩摩との話し合いなど出来るものではない。薩摩藩主の島津斉彬様は、将軍御世継ぎに、一橋慶喜様を推しておられるそうじゃが、幕府には吾殿、慶福様を推挙する動きが、井伊直弼様を中心に起きているともっぱらの噂じゃ。井伊直弼様に組しておられるのが水野忠央様よ。薩摩のことなど城中では口に出来るものではない」
と、貞輔は困った顔で藩内の事情を漏らした。
「お前様もご苦労の多いことじゃなもし、気をつけてお勤めなされまし」
と、をちえは励ますしかなかった。だが、をちえの許には、江戸の枡屋から紀州藩江戸屋敷の事情が詳細に伝えられている。その内容を貞輔に話していいものかどうかをちえは迷っていた。貞輔に話せば、無用の心配を掛けるは必定である。
 をちえの許に届いた知らせでは、慶福様に毒を盛る事件が発覚し、女中二人が死亡したという。このことは極秘に伏せられ、表御殿には知らされていない。お部屋で内密に処理されたとのことである。だが、女中の死因に疑いを持ったお医師から漏れたらしい。委細は不明であるが一応知らせ置くとの事であった。その末尾に付け加えられていた言葉がをちえを凍らせる。
 枡屋は近衛忠房公とのご縁で薩摩の島津斉彬様と昵懇にさせて戴き薩摩藩の御用を勤めている。慶福様毒殺未遂の件は、一橋慶喜様を将軍世継に推されている水戸、薩摩の手の者か、安藤様の手の者かと、秘かに井伊直弼様と水野忠央様が疑いを掛けておられる。よってこの件は貞輔殿には話さぬがいい。今は静かに、水野様に従っておられることが身の安泰に繋がりましょう。枡屋とも疎遠に願いましょうと、あった。
 兄・冶信が寄越したこの手紙はをちえの衣装梱りの底に仕舞われた。いつかは夫・貞輔に示さねばならないがいまは伏せておこうと言うをちえの判断が働いたのである。

             五
 水野様が幼君・慶福様を推し立て藩政の実権を握っておられる現在、貞輔が安藤派であること自体が身に危ういことであるのに、実家の枡屋までがこのような事態では、益々に危険である。をちえは、如何したものであろうかと数日考えた末、弟・勇次に枡屋分家を起こさせ、紀州様をはじめ幕府方の諸藩の御用を勤めるようにいたさせようと決心した。
 をちえが江戸に発ったのは、父・冶平が死去したとき以来である。婦女の江戸出入りにうるさい幕府の掟を嫌ってをちえは江戸入りを控えていたのであるが、この度ばかりは兄・冶信と直談判する必要があった。弟・勇次にも納得させねばならない。をちえが江戸行きを貞輔に、
「枡屋のこれから先のことについて兄弟姉妹相寄って相談いたしたいのでお許し願いたい」
と、申し出た。このとき、をちえは、兄・冶信の手紙のことは貞輔に話していない。貞輔がをちえの急な申し出を訝ることは当然であったが、
「民吉の将来についても頼んで置くべきことがありますでのし」
と、をちえが言うと、
「枡屋は当藩にも諸藩にも顔が広い故、民吉の支えになってもらえれば有難い」
と、貞輔は素直に返答している。
 をちえが,下男・卯吉を伴って、江戸へ旅立ったのはそれから三日後で、八月中旬のまだ蒸し暑い日であった。女の足をいたわって、和歌山から大坂へは藩の船に同乗し、大坂表の紀州屋敷に出向いて挨拶を済ませ、枡屋の大坂店に投宿する。翌日は、店の手代の案内で諸藩の蔵屋敷が立ち並ぶ川岸や船場の商家などを見学する。大坂から伏見までは川舟、伏見から京へは高瀬舟に乗った。京では北野天神、本願寺、八坂神社に参詣し、この夜は祇園近くの枡屋の屋敷に泊まった。枡屋の者の話しでは、
「大坂はまだ徳川様のご威光が及んでおりますが、京では西国の雄藩の侍たちが横暴な振る舞いをして町の衆を困らせていなさる。御浪人衆も多数入りこまれて、不穏なことです。茶屋でも尊王とか攘夷だとかの話をなさっているようです。物騒なことになりました」と、をちえには衝撃だった。
 京よりは、大津より草津まで高瀬舟に乗り、美濃路、木曽路を経て江戸へ着く。東海道を往くつもりだったが、東海道は当節、兵馬や徒侍たちの往来が繁く、怪しき駕籠担ぎも多い故、避けられるがよろしいと、枡屋の屋敷で聞かされたので、平穏な美濃路、木曾路を選んだのである。女旅には険しいのだが、枡屋が問屋場に頼んで駕籠を宿場毎に繋いで呉れた。このための駕籠賃に枡屋が相当のカネを問屋場に払ってくれたのである。
 枡屋の先代・治平に仕えた者が今も店を預かっていて、をちえが娘だった頃からの顔なじみの者も居る。をちえの江戸往きにこの者たちが差配をふるって呉れたのである。をちえはそのもの数人に枡屋分家についての存念を打ち明け協力を求めた。その結果を持っての江戸入りである。
 こうした手配、気配りの上手さは父・治平譲りである。をちえはこれを城攻めの方法だといっている。外堀、内堀から本丸・天守閣に攻め込む手立てを綿密に立てるのが兵法で商売も同じだと考えている。兄・冶信のように独断で事を運んでは失敗すると懸念している。まして、一片の手紙で結論を押し付けてくるのは、枡屋に働く者をも無視している証拠であろうと、をちえは心配であった。果たせるかな、をちえが話すまで、枡屋の京、大坂の古老達は、冶信から彼がをちえ宛ての手紙に記したような経営方針について何も知らされていなかった。
 をちえが江戸入りし、冶信に会ったとき、このことを詰ると、
「時が来れば言う積もりであった」
と、話していないことを認めた。
「まずは、父の代からの古参の者に相談してから決断すべきでしょう」と、をちえが詰め寄ると、
「あの者たちに相談しても埒は明かぬ。時代が動いている故、私が率先して決めねばならぬ。薩摩のことは私一存のこと、当主として当然のことをしたまで、枡屋のこれからのありようは私が決める。口出しは無用に願います」
と、冶信は高飛車に言ってのけた。をちえは座り直して、
「兄の言うことは解った。こちらからの提案ですがのう、弟の勇次に枡屋分家を立てさせて呉れよし。商い先を分けてもらえば勇次もやりようがありましょう」
と、をちえが切り出すと、冶信が血相を変えて、
「勇次は腹違いだ。弟とは認めていない」
と、反発した。をちえは予想していたとばかりに応じた。
「父の子である事に変わりはない。藩主様たちには幾人もの側室がおられましょうが、側室の御腹で世継ぎになられた方は数多くいらしゃる。商人とても世継ぎを絶やさぬためには必要なこと、兄が健在だからいいが、もしも死んでおられたら勇次が相続する嵌めになったはずでありましょうが、弟として受入れ相応の財産を分かち与えるが当然ではありませんかなもし。父が存命中にそのように計らうべきだったのに、なにぶんにも急な病で亡くなられたので、そのように計らえなかっただけでしょう。兄は父の商いと縁を切るようなことを決断なされたのだから、この際、勇次に枡屋の暖簾を分けてあげなされ」
と、をちえは鋭く迫る。をちえは兄・冶信の経営方針に危なさを感じているのである。今のうちに枡屋を分けておかないと枡屋が消滅するとさえ思っている。