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幕末・紀州藩下級武士の妻 升屋のをちえ一代記

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 それからの貞輔は、屋敷奉行二年、塩硝奉行六年と、奉行職を相勤めることになったが、嘉永三年(1850)九月二六日御留守居番を仰せ付かった。貞輔が塩硝奉行を相勤めていたときに、斉順様も斉彊様も薨去されている。慶福様が藩主になられて藩政の主導権は水野忠央様に移り、冶宝様の影響力も薄らいだが、天保八年十月二十八日従一位に昇叙されて以後、一位様として君臨されてきた業績は多方面に及んでいる、なかでも、紀州藩領の伊勢国松阪が一族の発祥の地である三井家との親交は藩財政にも寄与したであろうことは十分に推察できる。三井家には一位様から下賜された宝物が数々所蔵されている。三井家の協力に対する返礼である可能性が高い。貞輔はこれを承知する立場にあった。だが、貞輔はそうした事情はをちえにも語っていない。
 をちえには、三十九歳にして始めて授かった一子・民吉が居る。嘉永三年の今年は十二歳である。この子が藩庁に出仕できるまでは夫・貞輔に踏ん張ってもらいたいと思っている。義父・小兵衛が表御右筆であったときに十九歳のわが子・貞輔を御用部屋に召連れて御用の留書きなどさせたように、民吉にも出仕の機会をつくって欲しいとの願いがある。だが、その機会が来ないままに時が過ぎて、嘉永五年も師走に入ったとき、「一位様が亡くなられた」と言う衝撃的な知らせがをちえの耳に入った。
 この日夜分遅く御城を下がってきた貞輔は無口であった。をちえが、
「冶宝様が亡くなられたとはまことかのし」
と、迫るように尋ねても、貞輔は直ぐには口を開かなかった。それに焦れたをちえが重ねて聞くと、
「まことだが、口外せぬことになっておる。どうして知ったのか」
と、逆に尋ねてきた。
「お前様は口外せぬことだと言われるが、商人衆には既に伝わっております。和歌地区の枡屋分店の番頭が昼前に訪ねて来て、御城の方から聞いたと・・・」
 をちえの言葉に、貞輔は唖然としたのか一瞬のけ反った。藩庁が極秘にしていることがこんなに簡単に漏れるとは信じられないことであった。冶宝様が薨去されたのは師走七日であった。それがその日のうちに領民たちの知るところとなったのである。
 水野忠央様が冶宝様の息のかかった家臣を処罰され始めたのは、実にその翌日からである。電光石火のごときものであった。最初に槍玉に上がったのは、冶宝様の御小姓を勤められた後、勘定奉行兼寺社奉行となられていた伊達千広様と御養子・宗興様、熊野三山貸付所頭取・玉置縫殿であった。
「伊達千広様は安藤直裕様御預けに決まった」
と、貞輔がをちえに漏らしたのはその数日後である。をちえは驚いて顔をこわばらせた。
「伊達千広様は本居大平様の許で学ばれた国学者であらせられるのに、なぜにそのような御処置に・・・」
と、をちえが訝ると、
「和歌山派の中心人物として藩政改革を推進してこられたので江戸派に追い落とされなさった」
と、貞輔が苦虫を潰すように答える。
「お前様は、大丈夫かえ・・」
と、をちえは心配顔である。
「伊達様は尊王論の急先鋒で熊野三山とも組んでおられたのが災いしたのであろう。紀州藩は佐幕派で在られ、その中心に居られるのが御家老の水野忠央様だから、尊皇派を粛清なさった。安藤派との抗争ではない」
と、貞輔は身の安全を伝えるように言った。
 確かにそれから平穏な日々が続いたのである。しかし、この年は六月三日にペリー来航があり、他国船も頻繁に領海に侵入し、世情は騒然としていた。藩士の多くが海防のために狩り出されている。江戸、清水、熊野などに出張る者が交代勤務で和歌地区との間を往還している。御留守居番の貞輔もこのために勤務繁多であった。
 このとき、御城の者を驚愕させる知らせが江戸から届いた。安藤直裕様と水野忠央様が、何事があったのか、江戸表にて刃傷に及び、安藤様は足を切られなすったがお屋敷にお戻りなされ、水野様は腹部に深手を負われた由。噂では、水野様の専横な振る舞いに対して安藤様が堪忍袋の緒切られたとか伝わっている。安藤派にとっても水野派にとってもこれは容易ならぬ事であった。帰宅した貞輔がこのことををちえに話すと、夕膳を運んで来た手を滑らせて御盆ごと落とした。
「なんとおっしゃった。刃傷沙汰ですって・・・」
その声が狼狽している。貞輔は、床に落ちた椀や皿を拾い上げながら、
「殿には余程我慢ならることが御在りになったのであろう」
と、無念の様子で呟いた。をちえもしゃがみ込んで床の魚や惣菜を掻き集めている。
「安藤様は忍耐の強いお方と聞いておりましたが・・・」
と、をちえは意外だという表情であった。
 この夜は、二人共に、塞ぎこんでいた。をちえの心配は安藤派である夫・貞輔が水野派に狙われるのではないかと言うことだった。
「御城代・久野純固様はどうなさっていらっしゃるのかのう」
と、をちえが言うと、
「あのお方では、安藤様と水野様の間には入れない。城代家老とは名ばかりのことよ。伊勢田丸城代を兼務され海防に手一杯のご様子だし、家格が付家老様お二人には到底及ばないからのう」
と、貞輔は見捨てているように返答した。
「それでは、藩をおまとめになるのはどなたでいらっしゃるのかのし」
と、追い討ちを掛けるように尋ねる。
「藩主様御一門の御家老・三浦様ならば・・・」
と、貞輔は言いかけたが、
「付家老様たちには幕府以外は駄目であろう」
と、絶望するように口を結んだ。
 この夜の重苦しい空気は、翌朝の明るい日差しと爽やかな風に目覚めた二人からは消えていた。民吉も起きて来て朝餉を共にする。
「学問所へ行く日か」
と、貞輔が尋ねる。
「儒学は好みませぬが・・・」
と、民吉が浮かぬ顔をしている。
「儒学は武士の素養であるが・・」
と、貞輔が言う。
「洋学を早く学ばねば・・」
と、民吉は時代の波を身に感じているように呟く。
「万次郎とか申す者、アメリカより薩摩に戻ったそうな」
と、をちえは民吉の後押しをするように言う。民吉がそれに勢いを得て、
「万次郎は薩摩藩の洋学校・開成所で英語講師を務め、藩校・教授館の教授に任命されたそうではありませんか。吾藩も洋学教育を行なうべきです。さもなくば、吾藩は時代に遅れましょう。外敵に備えるには彼らのことを学ぶべきではありませんか。敵を知らずして戦など出来るものではありません」
と、日頃の存念を披露する。黙って聞いていた貞輔だったが、
「左様なことは、公言するでないぞ。藩政を批判していると受け取られれば一大事じゃ」
と、たしなめる。だが、をちえは、
「民吉の言うことも尤もなこと、外敵相手に戦せねばならないならば、こちらの火器も戦闘の仕方も敵を凌ぐものでなくては勝てませぬ。万次郎とやらのアメリカでの見聞や経験は貴重なものでありましょうから、紀州に招かれるか、しかるべきお方が薩摩に赴かれて万次郎に会わせてもらうよう薩摩と交渉なさるわけには参りませぬかのし」
と、民吉の意見に組している。