小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

幕末・紀州藩下級武士の妻 升屋のをちえ一代記

INDEX|4ページ/17ページ|

次のページ前のページ
 

 この年の七月二六日、和歌山城天守閣が落雷で焼失した。藩主になられたばかりの斉彊様には不吉なことであった。田辺や新宮の支藩で農民一揆が起きたばかりでなく、和歌山城下での農民や町人の騒ぎがあり、離農、離村する者が増えている。藩外より不穏な人間が入国し火付け、強盗、殺傷事件が起きている。物価も高騰して町方の暮らしは困窮を極めた。
 藩政改革が思うように進まないまま年が過ぎて、藩主・斉彊様のこれからに期待が寄せられていた矢先の嘉永二年(1849)三月朔日斉彊様が薨去された。藩主在位期間は僅かに三年である。
 この薨去をめぐって不穏な噂が和歌山城下に流れた。冶宝様の怨みに祟られたのではないか、いや、いや、冶宝様の手の者に秘かに暗殺されなすったのではないかと、真偽のほどはつまびらかでないが、噂は噂を呼んで広がっている。
 この噂はをちえの耳にも届いていて、貞輔がお城から下がってくると、
「大変なことじゃなもし、冶宝様にお会いして真偽を確かめることも出来ませぬし、鶴樹院様もすでにお亡くなりになっていますしのう。それに、美佐様の呪いじゃと言う人も居ます由、お城の方々はどのように思っていらっしゃるのか、お前様には何か見当がついてますかのし」
と、をちえは貞輔の前に膝を屈して中腰で貞輔の袴の紐を解きながら、気がかりな様子で尋ねている。
「そのことじゃが、御病死と決まっておる」
と、貞輔は素っ気ない。この場はそれで終わったが、この夜、この屋敷の門を激しく叩く者がいて、貞輔が出てみると、塩硝奉行所の若侍で同僚の一人が出奔したと告げた。嵐の中を駆けつけて来たらしく着衣はずぶ濡れである。取り急いで屋敷に入れると、をちえが、着替えに貞輔の衣類を差し出し、
「湯はまだ落としていませぬから、湯浴びされるがいい」
と、勧める。若侍が恐縮していると、貞輔が、「それがいい。話はそれからじゃ」と、促がす。
 簡単な食事を用意して、湯浴びを済ませた若侍を迎えた貞輔とをちえは、夜食の付き合いをしてから、十分に落ち着いたところで、若侍の話を聞いた。
「夏目が数日前からふさぎ込みおりましたところ今夜、俺は安藤様の御用で江戸へ赴くと言い残して出奔いたしました。安藤様の係りの者に聞きただしたところ、左様なことは殿様から聞いては居らぬとの返事。支配様にお届けも致し居らぬので、奉行様に火急にお知らせせよとのことでかくは参上した次第です」
「立木、ご苦労であった。して、追っ手は出したか」
 貞輔は型どおり尋ねた。安藤様の名が出たことで一抹の不安がよぎった様子だったことを、をちえは見咎めている。
「そのことですが、支配様は捨て置けとのことでした」
 これには貞輔が驚いたようだった。
「安藤様の御用って、貴方は、何かご存知なの?」
 をちえが核心を衝くように尋ねる。立木は一瞬、たじろいだようだが、
「以前聞きましたことには、安藤様御領地の田辺与力・横須賀組が身分替の噂に動揺し不穏であるとのこと、在府の殿にその仔細を伝えるべく江戸の安藤様御屋敷に向かったようです」
「田辺与力のことは、安藤様から内聞致していたが・・・」
「夏目の出奔を最初に知らせて来たのは、水野様屋敷の仲間であったとのこと・・・」
「それでは、こちらの事情は水野様に即刻伝わっていよう。日頃から窺がわれていると見てよい」
 貞輔はそれが不安であったらしい。をちえの顔を見る。
「水野忠央様は先年、自ら著わされた丹鶴叢書を幕府に献上され、
お褒めにあずかっておられる由、御覚えはめでたいことでありましょう。それに比べれば、安藤直裕様は、田辺与力が幕府に直訴することになれば、苦境に立たされましょう。なんとしてもそのことは防がねばないませぬのし」
 をちえは安藤様のこの先が気がかりであった。
「夏目は無事に安藤様御屋敷に入ればいいが、水野様方に捕らえられれば厳しい詮議を受けよう。田辺与力から追手が出たやも知れぬ。
最早、三つ巴の戦じゃ」
 貞輔は振り切ったように言って、立木に何事か耳打ちした。立木が頷く。それを機に立木が家を辞した。をちえが、
「何をおっしゃったのですかえ」と尋ねると、
「密命じゃ」と、貞輔は切り捨てるように返した。既に夜明け近くになっている。昨夜の嵐は収まって庭木も勢いを取り戻していた。桃の季節から桜へと移る頃で少しは冷たいが温かさが感じられる。立木はその中を足早に去って行った。その後姿ををちえが門の側に立って見送っている。

             四
 この日から間もなくの嘉永二年(1849)閏四月三日菊千代様が四歳で紀州藩主となられる。実母・美佐様は、悔し涙の乾かぬうちに思いもよらなかった幸運に恵まれ、江戸藩邸で大仰に喜ばれた由である。当時、於美喜の方様とお呼びされていて、「於美喜の方様、御恨みが晴れ申しましてございます」と、御付の女中衆が共に歓喜したとのことである。
 をちえはこれを耳にしたとき貞輔に、
「女の執念は恐ろしいものですよのし。思いを遂げなすったでよ」
と、身の毛のよだつような顔で言った。
「まことのことは解らぬが、美佐様のお子が藩主になられたのは事実。菊千代様は元服なされて慶福様と名を改められた。いまだ六歳であられる故、安藤直裕様と水野忠央様が共に補佐役を相勤められる。とは申せ、冶宝様嫌いの幕府に取り入っていなさるのは水野様故、安藤様は何かと控えめになさろう。横須賀組田辺詰与力衆が幕府に安藤様に対する苦情を申し出ているようでもあるから安藤様は腹背の敵に悩まされておられる。これからの藩の治世は水野忠央様が主導されるであろう。吾等はその危惧を抱いておる」
 貞輔は最近の藩の情勢についてをちえに話し、この先の不安を訴えている。
「お前様は、塩硝奉行を勤められて六年になられる。お役替が近いかもしれませぬ。大切なとき故、重々用心なさってくだされ」
 をちえは貞輔が安藤様一派と目されていることに一抹の不安を感じている。
 この年、貞輔は五十二歳である。安藤直裕様は二十八歳、水野忠央様は三十五歳、冶宝様は七十八歳を迎えておられた。冶宝様には退隠されてから既に二十五年になる。大殿として藩政の実権を掌握されていたが、それが災いしてか、藩主・斎順様は藩政を避けて華美・遊興・贅沢の道に走られた。それには、大殿・冶宝様の学問、文芸、茶道、陶芸などの西山御殿文化に競われるお気持もあったのではないかと噂されていた。斉順様の江戸参勤行列の華美は人の目を疑わせるほどであったと言う。
 振り返れば、斉順様の御代は文政七年(1824)六月六日二十四歳で家督相続されてから弘化三年(1846)五月八日四十五歳で薨去されるまでの二十二年間である。貞輔は文政七年(1824)四月二十日に大殿様方奥御右筆部屋にて軽御用の認物を相勤め申すべく仰せ付けられる。時に二十七歳であった。この後、文政十二年(1829)十月二十九日大殿様方表御右筆御書方御用認助物を仰せ付かり、以後、天保四年(1833)八月二十二日伝法御蔵奉行助を仰せ付かるまで九年四ヶ月の長きに渡って大殿様に御仕えしている。