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幕末・紀州藩下級武士の妻 升屋のをちえ一代記

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と、冶信が言うと、即座に、
「父様に来てもらうがいい。大殿様と昔話を致したきため伺候仕りたいと治平が申していますと願い出るが最上でありましょう。生臭い話は抜きにすることじゃのし、父様が西山御殿に伺候できるよう安藤様のご家中にわたしがお願いしましょう。わたしも大殿様にはお会いしたことがあります故、お供させてもらいましょう」
と、をちえが存念を話した。
「それはいい考えじゃ。江戸に帰れば早速、父に話そう。きっと聞き届けてくれよう」
と、冶信は早速乗ってきた。すると、
「早飛脚で知らせることにしましょう。兄じゃは暫くこちらに滞在してあちこち見聞なさるがいい。足を延ばして、水野様御領地の新宮の様子も知られたら良かろう。実地見分は大切なことじゃのし」
と、をちえが勧める。
「貞輔さんは表立って動きにくい立場だから、此処はわたしと兄じゃとで凌ぐのがいいでのし」
 この夜の話は遅くまで続いたが、冶信は宿に帰るといって引き上げた。をちえと貞輔はその後で、藩内の事情について話し合った。冶信に敢えて聞かせなかったのは冶信の口から藩内の事情が漏れるやも知れぬとをちえが警戒したからである。
「兄じゃは軽率なところがあるで、めったなことは明かせませぬ。父とは大違いなのが悩みでしてのし、お前様に迷惑がかかるといけませんでのう」
 冶信が同坐していたときは、貞輔さんと呼んでいたのに、夫婦向かえ合わせになると、「お前様」になる。をちえの気遣いは細やかである。
「斎順様はこのところご病気勝ちで藩政会議にもお出ましにならない。水野忠央様もそれで思うようには藩政を牛耳れない。安藤直裕様が大殿様のご意向を伝えなさる。吾等はそれに従うまでのこと故、安藤派と目されておる。これでいいのだ」
 貞輔には安藤派として御使えする覚悟が出来ている。をちえはそれを頼もしく思った。日和見でも傍観者でもない。安藤直裕様のためには死も怖れない実直さが好きである。気転の利かない剛直者で時代遅れになる心配はあるが、付和雷同する軽薄な者でないのが取柄であると、をちえは貞輔を評価する気持に傾いていた。この日の話し合いは、をちえが一切を引き取るかたちで終わったのである。
 この後、をちえは鶴樹院様(藩主・斎順の正室、冶宝の娘・豊姫)と西山御殿で会し、内密に枡屋のことを頼み込んでいた。をちえは鶴樹院様と茶華道を通じて懇意であったのである。治平伺候の願いををちえから聞かれた豊姫様が、その願いを聞き届けてやるように父君・冶宝様に口添えされたという。
 枡屋治平が和歌山に来たのは、これから一年後の弘化元年(1844)十二月十日である。冶平はをちえの工作が成功したことを承知して和歌山に来たのである。この来訪の表向きの名目は、貞輔が十二月四日に塩硝奉行を仰せ付けられたお礼に参上したと言うことになっている。
 西山御殿に伺候した枡屋治平と大殿・冶宝様の間でどのような話しが交わされたのか、同坐を許されたをちえを除いて、ほかに知る者はない。時は弘化元年(1844)十二月二十日であった。

             三
 藩主・斎順様が薨去されたのはこの二年後の弘化三年(1846)五月八日である。このとき、大殿・冶宝様は西条藩の松平頼学様を新藩主に迎えられようとした。しかし、幕府の反対にあって頓挫したのである。一説では、付家老・水野忠央様が妨害されたという。新藩主は幕府の意向を受けて、前将軍・家斎様の二十一男斎彊様を迎え入れることになった。
「冶宝様の御威光も通じなくなった」
 これを知ったときの貞輔の落胆は大きかった。をちえは、
「斎彊様は水野様一派に囲まれなさるでしょう。安藤様も御政務がやりにくくなるやも知れませぬ。お前様も用心されるに超したことはない。枡屋の商いに支障が出ぬよう願っとりますでのし」
 をちえは話すとも問いかけるともなく喋っている。貞輔が気落ちせぬように励まさねばと思っているが、藩の政変がどのような形で現れるかはこの時点では予想がつかなかった。
「斉順様に続いて斎彊様も大御所・家斎様のお子であられるから紀州様の御血筋は吉宗様に遡ることになったでのし。松平右京太夫様の御血統は冶宝様でおしまいやろかのし。そうなれば・・・」
と、をちえはつばを飲んでから、
「安藤様も穏やかではありませんでしょう。水野様に割りを食いなさるは必定。不利になられましょう。分の悪いお役ばかり廻ってくることになるのではと不安でありますがのし」
と、心配を口に出していた。
「冶宝様は、この度のお世継ぎのことで幕府に屈せられてからは藩政には口をはさまれなくなったとか聞き及んでいます。此処暫くは若殿様のなされようを見守るしかない。ご時勢柄、出費多端で御勘定方も苦労なさっている。吾等,塩硝方の入費が格別に大きく迷惑を掛けているが、幕府よりの御達しもあり夷敵への備えは怠りなきようにせねばならぬ。このときに藩政に動揺があってはならぬので、藩内の争いは避けて戴きたいものと願っております」
 貞輔はお世継ぎ争いのわだかまりが藩政に悪い影響を及ぼすのが心配であると、をちえに訴えている。
「斉順様の御嫡子・菊千代様が、斉順様の薨去と同じ年同じ月にお生まれになったのはまことに奇しきご縁ですのし、八日に身罷られて二十四日に生まれ変わられたのじゃ。斉順様は四十六歳で没せられたから未練が御ありだったかも知れませんですのう」
 をちえは貴人の生まれ変わり説を信じているようであった。貞輔が苦笑している。
「御腹は御女中の美佐様じゃ。松平六郎右衛門晋殿の娘と聞いている。江戸赤坂の藩邸で誕生された。斉順様の喪中のことゆえ、万事控えめのお祝いだった。お世継ぎはすでに斉彊様と決まって居ったから格別の騒ぎにはならなかったが、美佐様は号泣して悔やまれたそうじゃ」
「まこと、お気の毒じゃのし。いま少し早く御誕生になればお世継ぎになられたものを」
「いや、斉順様がお亡くなりになる前にお子が誕生されていたとしても、それは難しかろう。お世継ぎのことは、病臥なさっている頃に、斉順様から冶宝様にご相談があって、委細を冶宝様の思われるようにお計らいくださいということであったと聞いている。美佐様にお子が宿っていることは、斉順様はご承知であったと思われるから冶宝様にそのことはお話しになったうえでのことだと思われる。美佐様にはもちろん内緒であったろうが、お世継ぎの決定は左様に難しいものよ。冶宝様ですら思うように運ばないで、お世継ぎは、幕府の意向で斉彊様に決まったのだ」
「お前様は男だから女の気持はわからないのでしょうが、美佐様の残念はわたしには痛いほどに解りますよ」
 この夜、二人の会話はなんとなくしんみりとしていた。御政道の端にぶら下がっている自分たちとは別の世界ではあっても、人の情に変わりはないものよと、思いをめぐらすのであった。