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幕末・紀州藩下級武士の妻 升屋のをちえ一代記

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 八十吉は明治八年(1875)九月二十五日和歌山県和歌山区湊通丁南四丁目平民・立野司姉をさと、と結婚した。をさとは安政五年(1858)三月九日生まれである。このとき、八十吉二十三歳、をさと十七歳である。をちえは七十八歳に達していた。
「八十吉が銃隊御免を願い出て下等戊兵差免になったのは四年前の明治四年二月晦日だったのう。あの時は酷く衰弱しておった。だが病気のおかげで忌まわしいお勤めを遁れたのじゃから喜ぶべきことであろう。おかげで健康も回復し、をさとさんと所帯を持つ事が出来たのよ」
と、をちえは手放しで喜んでいる。八十吉には侍でない道を選ばせてやりたい。そもそも侍の時代は終わったのじゃ。八十吉は商人にならばいい。枡屋が仕込んでくれよう。今、をちえの思いはその事に走っている。
「和歌山県の官吏になったとて、薩長藩閥政府の支配を受けねばならぬ。紀州藩は親藩であった故、新政府には目の敵にされておろう。諸般のことで冷遇されるは必定じゃ。左様なところに未練は無かろう。新しい道を選ぶならば今が潮時であろうと思うがどう思っていなさるか」
と、をちえは八十吉に問いかけている。二人で夕食をしていたときのことで、八十吉は箸を膳の上に落とした。
「枡屋の土台に乗れば士族の八十吉にも商いの道は開けよう。その気になれば勇次も冶信も手解きをして呉れるであろう。八十吉の覚悟が決まれば教えてくだされ」
と、をちえは八十吉が思案する時間を与えるように言った。
 この発言は八十吉に深刻な衝撃を与えたことは確かである。その後、八十吉は無口になり塞ぎこむ姿も見られるようになった。御勤めは元の書役に復帰し支障無く過ごしている。をさととの結婚以来、家庭的には安定しているのだが、養母・をちえの自分に寄せる思いに従うべきか否か迷っているように見えた。
 この事態から八十吉が抜け出したのは家禄返上で奉還金が支給されると決まってからである。彼は自力で商業に乗り出す決意をした。枡屋の支援を当てにすることは潔しとしなかったのである。彼の気持はをさとから、をちえに伝えられた。明治九年秋のある日のことである。
「頼れる人には頼るがいいということを心得てこそ成功するものじゃ。意地を張っての世渡りは自分を高く買っている証拠じゃのし。見知らぬ道に分け入るときは人の助けを求めても恥にはならぬ。道案内人が必要なのじゃからのう。八十吉にはをさとさんからそのことを篤と納得させてやってくださらぬか」
と、をちえは、をさとに説き聞かせている。
「奉還金はまことに戴けるものでしょうかのし」
と、をさとにはそのことが心配である。
「尤もな心配じゃのし。このご時勢では県庁の布令は信用できぬからのう。空手形になっては大事じゃ。奉還金が手に入ってから決断するが良かろう」
と、をちえは県庁への不信を顔に浮かべている。家の外に吹く秋風が戸の隙間から忍び込んでくる居間で二人は思案に耽っていた。この屋敷は小兵衛様以来の拝領屋敷である。藩主・冶宝様から厚遇を得ていた小兵衛様は家格を超える扱いをいけていなさった。をちえはそれを実子・貞輔の妻として体験していたから零落した今の世が恨めしいのである。その思いが八十吉を商人として立ち上がらせたいという願いを募らせている。
「をさとさんの御父上・立野次兵衛様は陸奥宗光様と親しい間柄であられた由、承って居ますが、勤皇の志士であられたのかのう」
と、をちえは探りを入れる。陸奥宗光が実父・伊達千広の血を受けて尊王攘夷に共感し、坂本竜馬、桂小五郎、伊藤博文らの志士と交わっていたことをちえは枡屋冶信を通じて知っていたからである。
「詳しくは知りませんが弟・司は陸奥宗光様の七男養子に入籍し、横浜の洋学校にて勉学させて頂いていると聞いています」
と、をさとは、父・次兵衛と宗光の間で計らいがあったことを話した。
「それは結構なことでしたのう」
と、をちえはそれ以上は尋ねなかった。

 奉還金の支給は予定より三年遅れた。旧藩士とその家族の生活設計はこのために少なからず困難をもたらした。奉還金を担保に借金をしていた者は高利の利払いに追われ、折角手に入れた田地や家屋を安値で売り払う者も居た。商店経営に乗り出した者のなかには商品の仕入れ代金の支払いにも支障を来たし秘かに夜逃げする者まで出た。
「武士の世も落ちたものよのう。農民や商人のほうがより豊かじゃ。家禄まで差し出せば最早、武士でもあるまい。まして慣れぬ商いなどして失敗すれば妻子共に路頭に迷うが必定。八十吉にはそのようなことをさせてはならぬ。おさとさんは、八十吉が官員になりたいようであれば陸奥宗光様に繋いでやってくださらぬか。若し、商売など始めたいと思うようであれば、枡屋を頼るように勧めてくだされ、お頼み申しますぞえ」
と、をちえは真剣な面持でをさとに話した。枡屋に繋がる養母の自分が言うと返答に困るだろうから妻のをさとに任せたほうがいいと思ったのだ。八十吉が枡屋の世話になることをためらっているらしい様子が目に映るのである。
「お舅・小兵衛様は養子であられたが、吉田家の御役向きを高められ藩主・冶宝様に重宝されなすった。数奇の殿様のおめがねにかなわれたのじゃのし。以来その御趣味のお役に立ち成された。私の実父・冶平がその後押しをさせてもらったのが縁で、私は貞輔様と結ばれました。小兵衛様はそれはそれはよう出来たお方でした」
と言うのが、をちえの最近の口癖になっている。八十歳を迎えたが十歳は若く見える。若い頃には日々の化粧に時間を費やし、鏡立てのをちえさんと呼ばれていた。健康に恵まれ明治十一年(1878)の今も達者であるが昔を偲ぶことが多くなっている。

 この年七月金禄公債証書の発行が始まる。奉還金は公債半分、現金半分で支給された。他の府県(3府302県)に比べて三年遅れたと言われる奉還金支給だったが、そのための功罪は相半ばしていたのである。功は先に支給された府県の士族の失敗に学ぶことが出来たこと、罪は士族を困窮に陥れたことである。
 旧藩主・茂承様が十万円を失業士族救済のために給付され、和歌山徳義社がこの年、明治十一年に創設された。この資金で百二十町歩の耕地を購入し、小作に貸し付けて小作料収入を困窮者救済や子弟教育に当てると言うものであった。これにはをちえは反対だった。
「百姓から年貢を徴収した武家のやり方ではないか。茂承様はやはり藩主じゃのう。士族に職業能力をつけねばならぬのに、地主にして寄生させなさる御積もりかのし。カネの力ならば商人が地主になるほうが早いぞえ。和歌山でも地所を買い集めている商人が増えて居るではないか。枡屋も農地や商業地を買収しておるが、商売の道を心得ているからであって、殖産興業に役立てるためじゃ。小作料を当てにした生き方は授産にはならぬと思うがのう」
と、をちえは茂承様の徳義社に批判的である。それと言うのも、茂承様が和歌山県民に告別される際、士族授産のために枡屋が応分の醵金を致しましょうと約束していたからである。