幕末・紀州藩下級武士の妻 升屋のをちえ一代記
「まいない侍が何時の世にも居るものよのう。まして、新政府の侍は飢えた狼のようじゃから始末が悪い。そうではなかろうか。枡屋は騙されぬように手立てを構えねばならぬ。江戸の冶信と緊密に連絡を取り合い新政府の内情に詳しくなることじゃな」
と、をちえは勇次の背中を押した。
「をちえ様はかねがね冶宝様ゆかりのお付き合いをもとに周旋方などとの繋がりを作り上げられましたがそれが今、ずたずたに切れております。新政府が旧幕府方商人の選別を強めていますばかりか、薩摩、長州、土佐、肥前などのお抱え商人が跋扈しております。なれど、枡屋は既に、イギリス、オランダ、フランス、アメリカなどの商館と直取引をやっていますから彼の地の事情にも詳しく、これからの商いの目標も見えてまいりました。また、その筋から新政府の動きをも承知しております。をちえ様の御心配を重々心に据えまして遺漏なきように勤める所存でございますれば、お力添えをお願い致します」
と、勇次はをちえの危惧を払うように言った。これには、ちえが目を見張っている。
「私の出番はなさそうじゃなもし。勇次は成長したものよ」
と、をちえは感嘆しながら、勇次を見込んだわたしの目に狂いは無かったと納得していた。
「今年一月には、安藤直裕様も水野忠幹様も大名になられそれぞれ田辺藩、新宮藩を立藩なさっていなさる。紀州様の御威光も落ちたものよのう。新政府は何を考えていなさるのか。将軍の居ない幕府などありはしないのに、自ら将軍になりなさったおつもりかのし」
と、をちえは維新立藩に懐疑を抱いている。
明けて明治二年(1869)六月十七日版籍奉還が許されると、藩主・茂承様は藩知事に任命されなさる。また、田辺藩主・安藤直裕様も新宮藩主・水野忠幹様もそれぞれ、田辺藩知事、新宮藩知事に任命されなさった。各藩は新政府の一地方機関に格下げされたのである。
この年八月十五日八十吉は銃隊仰せ付けられ第二大隊第五小隊に配属される。時に十八歳であった。同年十二月十七日第一大隊下等戊兵を仰せ付けられ第一大隊四番小隊第三分隊に配属され,役料十六俵を下し置かれる。
「いまどき、銃隊とは気の毒よのう。何時何処に狩り出されるかわからぬ。それも藩のためじゃのうて新政府のためじゃから気が進まぬであろう。藩士を辞すことも考えねばならぬやも知れぬのう」
と、をちえは不満と不安を口に出した。これにはその場に居た勇次も八十吉も驚いて、をちえの顔を凝視する。
「藩とは最早、名ばかりのものになった。天領には府県制が敷かれたというではないか。新政府は大名に遠慮して当分は藩を残し置こうが、早晩に廃藩しよう。新政府にとって大名領を藩として残しておくことは目障りなのじゃ。藩主様が藩知事に任命成されたこと自体が恥辱では無かろうかのう。薩長の如き外様風情の指図を受けねばならぬとは無念なことよのう。そもそもは、将軍・慶喜様が腰抜けになられたのが事のはじめじゃのし。藩知事になりなさった茂承様は二十五歳のお若さでいらっしゃるが御病状がちで兎角に弱気でいらっしゃる。紀州藩も新政府の風下に付くことは必定じゃ。藩士の処遇も思うようには参らぬであろう。今が見限り時ではなかろうかのう」
と、をちえは新政府への不満から藩を見限る心境になっている。勇次はその心境を察するように頷いているが、八十吉は動揺している。
「藩の新体制が落ち着くまで様子を見なければなりますまい。八十吉様のことはそれから思案しても遅うはございませぬ。枡屋が何時なりともお役に立たせていただきます故」
と、勇次がをちえの承諾を促がすように言う。枡屋を取り仕切っているのはをちえである。先代・治平の遺言によってをちえは枡屋の後見役を勤めている。
この年は吉田家にとっても運命の分かれ道が透けて見えるような状態のなかで暮れを迎えた。これから先の藩の動向を探り出すことにをちえは懸命である。枡屋の勇次も江戸の冶信と連絡を密にして江戸の情勢を収集している。
翌、明治三年(1970)二月二十日新政府は各藩に常備兵編成規則を通達する。九月二八日諸藩常備兵員は一万石に付き兵六十人と定められる。紀州藩は五十五万石なれば兵三千三百人になる。この改革により八十吉は十月十一日藩庁常備兵四番小隊第三分隊に配属された。をちえも八十吉も一応は安堵している。新政府軍による旧幕軍の掃討は終焉し諸国の戦に狩り出される怖れは消えている。
だが、このままでは先が不安であることに変わりはない。八十吉には士分を返上し商人になってもらいたいのがをちえの本心である。しかし、それは藩士・吉田家を断絶させるに等しいことなので八十吉の決断に任せるしかない。
「藩士とは言え名ばかりで商人にも及ばぬ暮らしに成り下がっておる。下士之上とはそうしたものよ。小兵衛様の頃が懐かしいのう。御姑の敬心院様も大層に派手にお暮らしであった。夫・貞輔様も小兵衛様の跡を同格に御勤め成されました。残念なのは民吉よのう。鳥羽・伏見の戦に負けた幕軍が大坂表に敗走してきた騒動で負傷したがもとで三十一歳の若さで死んでしもうた。あの戦ですべてが変わったのじゃ。慶喜様が憎い」
と、をちえは昔を懐かしみ今を憎んでいる。民吉を失ったことが耐え難い苦悩となってをちえに圧し掛かっているのである。養子・八十吉に苦労を強いているのもそのためだと悔やんでいる。
だが、昨年の明治二年(1969)六月十七日の版籍奉還で華族に列し藩知事となった旧藩主たちは、明治四年(1871)二月十四日東京府貫属とされ、国許を去る定めとなった。七月十四日廃藩置県が断行され、藩知事・茂承様も免官されなすった。七月二十一日和歌山藩は和歌山県と改称される。名実共に藩は消えたのである。吉田家は最終的な判断を迫られている。
十一
明治四年九月九日旧藩主・茂承様は和歌山県民に告別され同月十二日東京に移住される。和歌山城下は別れを惜しむ旧藩士、町人で溢れていた。とりわけ女衆は泪を流して御駕籠を遠くから見詰めている。これから自分たちの生活はどうなるのかと言う思いを背中に
乗せながら立ち尽くしていた。
をちえは数日前、御見送りに先立って御城に上がりお別れの御挨拶を済ませていた。これは枡屋のこれまでの尽力にお礼を述べたいという茂承様の御意向により御召だしを受けたからである。その節、茂承様からは、旧家臣の今後の生計についていろいろと御相談があり、士族としての体面を崩さないための授産に心を痛めておられることが解った。をちえはそれを有難く思い、枡屋も応分の協力を惜しまないことを約束したのである。
この年八月九日散髪廃刀が許され旧藩士はこぞって散髪する者、それを拒否する者が入り混じった奇妙な侍社会になっていた。廃刀も渋るものが居た。十二月十八日官職にある者以外、士族、卒の職業の自由も許され、二本差しの商人が居ても不思議ではなかった。遡って八月二十三日華・士族と平民間の結婚も許されていたので、格式を求める平民の子女と士族との結婚が流行りだした。
作品名:幕末・紀州藩下級武士の妻 升屋のをちえ一代記 作家名:佐武寛