幕末・紀州藩下級武士の妻 升屋のをちえ一代記
をちえは自分ひとりの胸に収めて置けないで、この事情を八十吉とをさとにも話し、茂承様には枡屋に約束を果たさせるが、安藤様の家臣とされることを拒んで脱藩し苦難の末に紀州藩への帰参を許されて松阪御城番となった田辺与力衆が起こした苗秀社のほうが自力で労力を尽して事業を営むが故に好ましいものじゃと言うことも付言し、八十吉も自力で立ち上がるがいいと勧めた。
この日のをちえの話は八十吉とをさとの心を動かし、八十吉は奉還金を元手に事業を始める決意をした。しかし、直ぐにも事業を始めるつもりだった八十吉を制して枡屋で商いを勉強してから見込みが付けば始めるがいいとをちえが諭した。
八十吉は一昨年の明治九年十二月五日長男・清雄を授かっている。奉還金が支給されたとき、清雄は二歳未満で、をさとは赤児の世話に手をとられていた。この頃、吉田家は和歌山区港東長町六丁目にある昔からの屋敷に居住していた。家禄返上で名実共に藩士ではなくなったのだが士族と言う呼称はなお自負心を支えている。そんな気持も手伝っていたのであろうか、士族に相応しい商売の選択に迷っている。商売をすると決意したこととは裏腹に後ろ髪を引かれていた。それを察したをさとが、
「今しばらくは枡屋にて勉強なされ、この児が五,六歳になった頃に商売を始められてはいかがでしょうか、そのときならばわたしもお手伝い出来ましょう」
と、誘いを掛けた。
八十吉が紀州ネルの商売をするべく、和歌山区丸之内十三番町三番地に移ったのは明治十四年(1881)春のことである。をちえは既に八十四歳と高齢であるが、持ち前の勝気を失ってはいない。商売の指図もする。枡屋の勇次も仕入れや販売の相手方を紹介し、商売の手解きを怠らない。このとき八十吉は二十九歳である。
をちえは八十吉夫婦と同居していたが、勇次が枡屋に隠居所を建て引き取ると言った。をちえの高齢を心配してのことであるが、当然ながら、八十吉もをさとも反対する。そんなことをされたら私たちの立場がないと、をさとは色をなしている。
「義母がお年を召しておられるのでご心配なのはわかりますが、あの通りお達者で商いの指南を戴いておりますのし。私たちは孝養を致さねばなりませぬ。それを今引き裂かれようとするのは惨いことでありますよのう。八十吉も同じ思いでありましょう」
と、をさとは、横に座っている八十吉の同意を誘いながら、勇次に抗議する。
「勇次の親切もをさとさんの気持も共に有難い。八十吉はなんもいえんで困り居るようじゃ。わたしが隠居すべき歳になったで、勇次が気を使ってくれたのだが、出来れば八十吉やをさとさんとこれまでどおり一緒に暮しておりたいのう。孫の清雄も良く懐いておるで離れとうはない。しかし、病気をすれば大事じゃのし。勇次はそれを心配して呉れておる。それでわたしはどうすべきか迷っておりますのじゃ」
と、をちえはどちらの顔をも立てている。勇次の気持はをちえが一番よく知っている。父・治平の死後、枡屋から疎外されていた異母弟の勇次に紀州枡屋を起こさせたのはをちえである。勇次がその恩義を忘れずにいることををちえは有難く思っている。
この勇次の提案が実現するのはおよそ一年後である。明治十五年六月十三日二男・富雄が生まれたのを機にをちえは勇次の許に移った。をさとが産後ではをちえのお世話にも支障を来たすだろうということでをさとが折れたのである。代わりに乳母と下女を勇次が送り込んできた。店には紀州枡屋が派遣した店員三人がいる。
八十吉の営むネル商は順調に業績を上げ暮らしも良くなった。藩士だったときとは格段の違いである。八十吉の商人言葉も板についてきた。をさとも安心して奥を取り仕切っている。勇次は時々訪ねて来て店の様子を見ていた。
八十吉は余裕資金で不動産を新たに取得する。投資収益を期待してのことである。取得したのは、和歌山区宇治元寺町西之町の畑と家屋一戸及び中之島の畑の三箇所である。不動産取得は成功した商人の間で流行っていた。その後、和歌山区岡円福院西之町三番地にも新店を出した。
紀州枡屋のをちえの隠居部屋で勇次、八十吉、をさとが、ちえの米寿の祝に集っていたとき、をちえがこれまでの「吉田屋」では店の由緒来歴が明らかでないと言い、小兵衛様の功績を縷々述べた後、屋号は「小兵衛」がいいと提案した。一瞬、三人は驚いたが、吉
田家を興隆させた小兵衛様に対するをちえの思慕の念が三人の心に響いたのであろう。屋号は「小兵衛」と決まった。
吉田家の存続に一番気を使っていたのはをちえである。舅・小兵衛様の世に戻すことは出来ないが、小兵衛様があの世で嘆かれないように、八十吉にはひとかどの商人になってもらいたいと、これまで苦労を重ねてきた。士分を捨てさせたのには悔いがないでもないが、吉田家のためには埒もない県庁勤めで埋もれさせるよりもいいと判断したのである。
「八十吉は、枡屋に呑まれることを嫌っておったよのう。商人になる決断ができなかったのもそのためじゃ。だが屋号を小兵衛にすればその懸念も無用と言うもの。小兵衛様への御恩返しのためにも励んでくだされ」
と、をちえは手を合わせて拝む。その姿には老いの影が寄り添っていた。
八十吉にはをちえの気持が今ではわかっている。屋号を「小兵衛」にせよと言ったをちえの真意が伝わったのである。八十吉はこれまで枡屋の援助を受けるのを止むを得ないと思いながらも釈然としなかった。吉田家の養嗣子としての意地があったのである。そのことはをちえが最もよく知っていた。
この年のお盆に吉田家ご先祖の法要が菩提寺・大恩寺で営まれた。施主はをちえである。
小兵衛(真蹄院光岳祐順居士)様五八回忌、小兵衛妻・さやか(敬心院明岳映光大姉)様五十回忌、をちえの夫・貞輔(即住院得岸浄生居士)様三二回忌、をちえの子・民吉(法心院性誉円成居士)十七回忌であった。
吉田家の親族、八十吉の実家・堀内家の親族、をちえの実家・枡屋の親族などが参集している大恩寺の控えの間で、をちえは堀田家の屋号を「小兵衛」と決めたことを披露した。
この法要のあと、をちえは安堵したように、趣味の盆栽作りに日々を過ごし、商売のことには口を挟まなくなった。それから半年が経った明治十九年二月六日をちえは老衰で死去した。遺体は大恩寺墓地に葬られる。法名は妙浄院得往智生大姉である。享年八十九歳であった。(了)
作品名:幕末・紀州藩下級武士の妻 升屋のをちえ一代記 作家名:佐武寛