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幕末・紀州藩下級武士の妻 升屋のをちえ一代記

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「枡屋に言いつけて滋養になるものを届けさせる故、せいぜい食べてつかわせ。傷の手当に御殿医が来てくださるそうじゃ。御家老の三浦様が格別にお計らいくださったとのこと、ありがたいことじゃのし」
と、をちえは民吉を励ましている。民吉自身も傷が悪化しなければ回復は早かろうと思い、そのため体力をつけるため僅かな運動も欠かさぬようにしている。
 旬日が過ぎ、経過良好と思われたので、民吉は庭に下り立って太刀の稽古を始めた。晴天で冬にしては温かい日であった。をちえの顔にも明るさが戻っていた。その日の夕刻、汗を落とすために久しぶりに入浴する。風呂釜に薪をたきつけていたをちえが、異常な呻き声が湯殿から漏れてくるのを耳にしたのはそのときである。
 をちえは、「民吉、民吉」と叫びながら湯殿に入った。「何が起きたのじゃ」と、駆け寄ったとき、民吉は湯桶の縁にしがみ付いていた。をちえが来たのに気付いた民吉は、「何事でもありませぬ」と言って、をちえを帰し、暫く休息してから湯殿を出る。
 翌朝、をちえが心配して医師を呼ぶ。見立てでは、軽い心筋梗塞が起きたのであろうということであった。このとき、民吉が、
「跡取りを決めて置きましょう。この病が再発する恐れもありましょうから」
と、をちえを驚かせた。
「左程のこともなかろう。病状は回復しておるではないか」
と、をちえは言葉を挿んだが、
「安心して養生させていただきたいのです。継嗣が居ませんから家名断絶になります。そうならないためには養子を迎えねばなりませぬ」
と、民吉は強く求めた。
 をちえもこれには反対できず、養子を迎える段取りに入ることを承知した。この翌日、親類相寄り相談の結果、堀内定右衛門正供二男・八十吉を養子とすることが決まった。堀内定衛門正供の惣領・楠之助正慶の妻はをちえの娘である。長男の妻の実家に二男が養子に入ると言うことで実父・定右衛門にも異議は無かった。
 養子縁組の話が内々でまとまったのは、一月下旬であったが、二月六日民吉の容態が急変し再び心筋梗塞を起こし急死した。享年三十一歳であった。
 民吉末期養子の儀は表御用部屋書役共の内存書を添えて藩庁に届出られる。慶応四年(1868)二月廿日に届出で三月五日八十吉名認仰せ付けられる。四月十七日八十吉は養父・民吉跡目の為四人扶持を下し置かれ、下士之上を以って末座仰せ付けられる。時に十七歳である。
 をちえは家名存続に安堵したが、僅か三十一歳で息子・民吉が没したことは残念でならなかった。舅・小兵衛は六十三歳まで生存し召抱期間は四十年であったし、夫・貞輔は五十六歳まで生存し召抱期間は三十七年であったのに比べれば、息子・民吉の若すぎる死は無念である。表御用部屋書役に本籍を置いたまま銃隊派遣となった民吉の苦労を思えば涙が止まらないのである。
「慶喜様は江戸に逃げ帰って何を為さろうと思っていらっしゃるか解りませんが、幕府に従って来た諸藩は大変な迷惑を受けておりましょう。茂承様も恭順され紀州藩は難無きを得ましたが、新政府の支配に移ります故、この先如何様になるか解りませぬ」
と、をちえは八十吉を前に話している。
「実父はしきりに官員になれと勧めています」
と、八十吉が身を固めたようにして言った。
「官員とは・・・」
と、をちえが驚いた。
「新政府では諸藩から要員を募るそうです。藩は廃止され新政府の指揮を受けることになる。討幕後に諸藩に変わる直轄の行政組織を作るための検討が既に始められているとのことです」
と、八十吉は言う。
「随分と早手回しですのう。商人はまだ御時勢の判断がつかず戸惑っていますえ」
と、をちえは枡屋のことを念頭に置きながら聞いている。
「定右衛門さんは新政府の詳しいことを何処までご存知かのう」
「藩庁には新政府の役人が出張ってきているのでその筋からの内通だそうです」
「それは由々しいことよのう。藩を壊すことになろう」
と、をちえは先行きが心配である。

 時は慶応四年(1868)四月下旬、この月二一日新政府は官制を七官両局に改め政体書を出している。このことが紀州藩庁にも伝達されて動揺が起きた。藩政は新政府の支配のもとで行われるので藩主の実権は著しく制限されている。それと符合するかのように、諸大名江戸詰の家族・家臣が帰国を命じられた。幕府が人質として諸大名の家族を江戸に留め置く在府の制度は最早不要となったのである。
 紀州藩江戸詰の藩士とその家族・使用人たちは五月から紀州・伊勢に逐次移住を始める。その数、四千人とも言われる。藩主・茂承様御正室・倫宮則子様が和歌山に移住のため江戸を出立されたのは六月十九日である。この年、則子様は御年十八歳、茂承様は二十四歳であった。
 この少し前の五月二四日徳川家達様が宗家相続を許され駿河七〇万石の藩主に封ぜられる。名実共に徳川幕府の時代は終わったのである。最早、藩の存在そのものが根柢から覆っている。外様大名である薩長が幕藩体制の頂点に立ったのである。藩の瓦解は目に見えている。
 をちえは養子・八十吉のこれからのことが気掛かりであった。江戸詰の者たちが大挙帰国して来た紀州では、藩士の生活を保障することも難しく、小者や下女たちは主家から解雇され職探しに血眼になっている。先年、半知令が出されて以後、紀州在住の藩士すら生活に困窮しているところに、この度の帰国騒動とあって、藩士の処遇は混迷している。
「八十吉が銃隊を仰せ付けられるようなことにならば大変じゃ。民吉の二の舞になろうやも知れぬ。新政府軍は旧幕臣が屯する江戸・上野の彰義隊を攻撃していると聞こえていますぞえ。紀州藩士もその攻撃に参加させられているそうではないか。この先、奥羽越列藩軍を攻撃するのに紀州藩士が徴用されるならば、銃隊が真っ先に送り出されよう。なんとしても銃隊入りは避けねばならぬ」
 をちえの心配はこのことにある。以前であれば、藩庁と枡屋の強い繋がりでことが運べたのであるが、新政府が介在しているため思うようには運ばない。藩主・茂承様や付家老様や城代家老様との直の面接が叶わなくなっている。そのもどかしさに、をちえは悩んでいるのである。
「最早、紀州様との深い繋がりは消えたにも等しい。八十吉の処遇にも祖父・小兵衛様や夫・貞輔様の頃のようには参りませぬ。枡屋の商いもこのままでは衰微しましょう。新政府と渡りをつけねば成りませぬ。江戸枡屋の冶信ならば薩摩、長州、土佐などにも繋がりは出来ておろう。勇次は紀州の新政府側に手蔓を作るのじゃ」
と、をちえは、切羽詰まった顔で勇次に向き合っている。
「差し詰め必要なことは軍用金の貸付でありましょう」
と、勇次は既に新政府側の要望を聴き取っているようであった。これには、をちえが驚いている。
「軍用金の貸付は戻らぬものと覚悟せねばならぬ」
と、をちえは即座に言った。
「枡屋の納める需品代金に充当してくださる約束になっておりますので丸損には成りませんが、まいない次第でどう転ぶかは解りませぬ」