幕末・紀州藩下級武士の妻 升屋のをちえ一代記
「江戸枡屋の兄・冶信には薩摩の打つ手を聞き出させましょう。その事情を知った上で、勇次が三浦様にお会いできる手筈を整えましょう。孫兵衛殿は周旋方の安芸様に京と鳥羽・伏見の情勢を探るように、をちえが頼んでいたと申し入れてくだされ。入費は紀州枡屋がお支払いすると伝えてもらいたい。急ぎお願いしますぞえ」
と、をちえは枡屋の元締の貫禄を示すような凛とした態度で言ってのける。孫兵衛は畏まった姿勢で、
「承知仕りました」
と、答える。
孫兵衛は冶宝様に御仕えしていた下士であったが水野忠央様の粛清で解職となり、以後は枡屋に寄食し周旋方の安芸様に派遣されている。をちえは水野様にパージされた冶宝様の家臣を枡屋が受け入れることを鶴樹院にお約束したのである。そのことが紀州徳川家外戚家老の三浦為質様のお耳に入り、をちえを家老宅に呼び出されて枡屋の労をねぎらわれた。こうした背景があって三浦様とをちえはその後も繋がりを持っている。
「藩主・茂承様は病臥なさって居られますで、紀州徳川家のこの窮状を打開されるのは三浦様以外には居られませぬ。水野忠央様の跡を継がれた世子の忠幹様は自国の新宮領のことで御多忙であるし、安藤直裕様も田辺領の支配に御苦労なさっている由、付家老様たちは自国が第一じゃからのう。此処は御姻戚の三浦様に踏ん張ってもらわねばなりませぬ」
と、をちえは藩主外戚の家老・三浦様に絶大な期待を寄せている。
孫兵衛は頷きながら聞いていたが、思い出したかのように、
「そうでした。お上が、鳥羽・伏見の戦に加わらず大坂城から紀州に帰国されたのはいかなる所存かと、朝廷より謀反の嫌疑が懸けられ、他意無き事を釈明するために水野忠幹様は、藩主・茂承様の名代として上洛なさいました」
と、話したのである。をちえはそれに驚いて孫兵衛を見詰める。すると、更に重ねるように、
「新政府軍は紀州討伐の機を窺がっているように聞きました。藩庁は火急の対応に追われているようです」
と、孫兵衛が言ったので、をちえは、
「何故それを先に言わぬ。一大事であろう。三浦様に早速、お会いする手筈を整えねば・・・」
と少し慌て気味である。
「紀州藩兵の身の安全が守られるようにせねばならぬのし。孫兵衛殿は早速、安芸様の許に走ってくだされ」
と、日頃は冷静なをちえにしては落ち着きがない。息子・民吉の安否が気に掛っている様子だった。
この日を境に、をちえは枡屋の力を総動員して薩長と幕軍の状況を探るべく、あらゆる手段を尽すことになった。薩長は鳥羽・伏見の戦で錦旗を推し立て官軍に化けた為に、幕府方の諸藩が官軍に寝返ったが、紀州藩は態度を明らかにしていない。そうしたなかで、和歌山一帯に不穏な噂が広がる。
●長州軍が先の長州征伐の仕返しに紀州藩を攻撃するそうな。
●前将軍慶喜様は吉宗様以来の紀州藩係累でいらっしゃるから薩摩は紀州藩を討伐するらしい。
と、物騒な話しが商人や町人の間でも囁かれている。
周旋方や間者から次々寄せられてくる知らせでも同様に官軍は紀州を狙っていると伝えて来る。薩摩軍に詳しい枡屋冶信からは、錦旗を掲げて薩長軍数千が紀州に攻め入る準備をしているなどの情報も入っている。
をちえは情勢を分析するために勇次を呼んだ。周旋方・安芸様に走らせた勇次はどのように事実を認識しているのかそれを知りたいと思っている。勇次の口から出たのは、
「紀州様は早急に恭順の意を新政府に表明なさる以外に道はありますまい。直ちに上洛なさるべきときでありましょう」
であった。をちえは、
「薩長は何故それほどまでに紀州藩を敵視して居るのかのう」
と、首をかしげる。
「紀州藩に戦意のないことを示さねば成りませぬ。紀州様は十一代斉順様、十二代斉彊様が御三卿の清水家よりお入りになり、斎順様の御長子・慶福様が十三代様であられましたが、将軍・家茂様と御成りになり、御正室は孝明天皇の御妹・和宮様であられます。かようなことで、紀州様が朝廷の敵に廻られると薩長の思惑は瓦解致しましょう。幕府方の勢力が回復することになります。それを防ぐためにはあらゆる手段で紀州藩を叩きのめしておかねばならないと策略を練っているのでしょう」
と、勇次は前のめりの姿勢で話した。
「紀州藩は徳川宗家一門ということであろう。慶喜様も一橋家で紀州ゆかりのお方じゃ。紀州藩を討伐するは徳川宗家を潰すに等しいと思っておるのであろうかのし」
と、をちえは紀州藩の危難を肌身に感じるようであった。
「慶喜様を敵に廻された島津久光様は、公武合体路線をも捨てられ、ひたすらに討幕を進めていらっしゃる。あのお方は天下取りが狙いだともっぱらの噂です」
と、勇次は京、大坂で聞き込んできたことを話す。そのなかには、紀州藩を脱藩して官軍に身を寄せている上士も居るとのことであった。紀州藩の内情はそうした者から官軍に伝えられているという。
これらの脱藩者を先鋒隊仕立て、官軍が紀州征伐に京を出立したという知らせが藩の放っていた偵察隊から家老・三浦様の許に届いていることも勇次は伝えた。
をちえが家老・三浦為質様にお会いしたのはこの二日後である。その際をちえは、紀州藩から新政府に献上金を差し出すことを提案し、その資金の一部を升屋が藩に提供すると約束した。これを聞いて三浦様は大層に喜ばれ、藩主・茂承様がをちえを謁見される。
この数日後、茂承様は新政府に恭順の意を表され、十五万両とも言われる巨額の献金を成されたばかりか、紀州藩兵を新政府軍に差し出され、京の守備に当たらせられた。また、紀州に逃げ込んだ幕軍の兵士を新政府軍に引き渡すことに同意された。紀州藩討伐を避けるためとは言え理不尽な要求に屈せられたのは領土安堵と領民の安全を守るための苦渋の御決断であったと、をちえは泪ながらに勇次に語った。
民吉の消息が明らかになったのはこの頃である。をちえの許に京の枡屋から使いがやって来て民吉の書信を届けた。それは時々のメモ書きを紙縒りで束ねたものである。メモは走り書きで断片的である。僅かな隙を見つけて書いたらしいことが解る。
将軍様脱走と言う文字がをちえの目を引き付けた。その下には大坂城放棄とある。紀州藩兵について書き留めてあるメモでは、指揮混乱し、警備任務は守りがたい。脱走する者あり。帰国命令を待つとあって、混乱振りが窺がわれる。更に一枚めくると、斬込みあり、負傷多数。銃隊応戦する、敵方は浪士隊とあり戦闘があったことを示す。その最後に、負傷した。生死に別状はないが深手。暫時療養を要すが暇無しと記されているのに、ちえは驚いた。今はどうしているのであろうか、そのことが気掛かりである。行燈に書状をかざしながら読むをちえの手が震えていた。
九
民吉が紀州に戻って来たのは慶応四年(1868)一月中旬の雨の降る寒い午後であった。体の数箇所に銃弾を打ち込まれた姿は痛ましいまでに衰弱していたが、気力は旺盛で嗤って見せるほどであった。医師の見立てでは何れも急所は外れているので休養すれば回復すると言うことである。をちえはその言葉に力を得て、民吉の体力回復のためあらゆることをなそうとする。
作品名:幕末・紀州藩下級武士の妻 升屋のをちえ一代記 作家名:佐武寛