幕末・紀州藩下級武士の妻 升屋のをちえ一代記
「薩摩の島津久光様が勅使を前面にお立てになって江戸城に入られ、慶喜様を将軍後見職にと将軍家に迫られ成功なさった。朝廷の参豫会議では慶喜様は島津久光様に逆らわれ会議を解体に追い込みなさった。それ以来、幕府と薩摩の争いは決定的に成ったと言いますぞえ。将軍になられた慶喜様が江戸にお戻りになれないのもそのためだと聞こえておりますのし」
と、をちえは京都の事情に詳しい。これにはをちえが放している周旋方からの知らせが含まれておるようであった。周旋方は薩長にも幕府にもつなぎを入れている。軍用金・兵糧の調達、人夫の手配、密書の送達など極秘の仕事を受け持っているのが周旋方である。敵と味方の橋渡しもする。をちえは冶宝様以来の人脈を使っているのである。これは、をちえの父・冶平がをちえに与えた隠し遺産である。
「慶喜様が京から大坂へ退却成されたことで薩長は勢いづいておりましょう。京は薩長の手に落ちたも同然、大政奉還など申しだされたのが失敗の始まりでありましょう。御本心では幕府の継続を願っておられるのでしょうからね。慶喜様は策を弄ばれる悪い癖がおありです。家茂様は優柔不断であられたのが欠点でしょう。人望は家茂様にありましたが、慶喜様方に囲まれなすって意に反する御決定も数々為さっていました。お気の毒でありましたのし」
と、をちえは述懐するように言った。勇次のほうが押され気味である。
「昨年、坂本竜馬と言う土佐浪士が京の宿で殺されたなすって大騒ぎになったと聞いています。切人は顔見知りだった言われていますが、真偽は不明です」
と、勇次が言うと、
「彼の人は土佐の周旋人で才谷梅太郎と名乗り、薩長の仲直りを斡旋したり、舟の周旋などやったり、土佐の舟将を勤めたり、謀略に長けたお人と聞こえて居るがのし。人斬りもやって居るらしい。厄介なお人じゃ」
と、をちえは批判的であった。このところ、紀州には土佐浪人が流れ込んできて狼藉を働いていることも手伝ってか、をちえは土佐嫌いである。
市中は、ええじゃないかで、相変わらず騒々しい。万町には金の御幣が降ったとか、桶や町にもするが町にも数々のものが降る。人々はそれを喜んで笹立て祀る。踊り狂う者もあり、なかには人の背負籠から果物野菜などの荷を盗む者もあり、咎めても、ええじゃないか、ええじゃないかと、踊るばかりである。その様は気狂いしたとしか思いようがない。武家屋敷や御長屋の辺りは避けて、踊りは町屋界隈を練り歩いている。世直しを願う人々のレジスタンスであろう。このようにしてしか御時勢に抵抗できない人々の狂おしい気持が渦巻いている。
「末世じゃのし」
と、勇次と連れ立って町を歩くをちえが嘆くように言う。
「お上もお許しのことなれば、当分は収まりますまい」
と、勇次が諦め顔である。
「幕府はこの御時勢を収めきれなくなっておりますのう。紀州様も長州征伐で負けなすってからは引き篭っていなさるようじゃ。お体の具合が芳しくないとか。御家老様方も大変じゃのし」
と、をちえは町の騒ぎで聞き覚られないのを幸いに勇次に語りかけている。
翌、慶応四年(1868)一月三日紀州藩は大坂近傍警備を命じられる。幕府軍が大挙して大坂表に結集し上洛の機を窺がっている微妙なときである。この日鳥羽伏見の戦が始まる。吉田家にとってもこの日は運命の転機となる。この度の紀州藩兵制改革で小普請組は銃隊に組み入れられたのである。民吉は大坂表への出陣を命ぜられた。
このとき、をちえは紀州藩の先行きに不安を感じ取っていた。慶応二年(1866)に紀州藩が行った半知令で藩士は既に生活が苦しくなっている。商人たちもそのアフリを食って商いが萎縮し沈滞した空気が漂っている。また同年に実施された藩兵制改革で藩士たちは動揺している。その上に、藩主・茂承様は病臥されているので藩軍の指揮がお取りになれない。藩の財政は、先年の二度にわたる長州征伐と兵制改革のため、窮乏を来たしている。をちえは、
「紀州藩は八方塞がりで動きが取れませんのう。この状態で大坂近傍警備に赴くことはきわめて危険でありましょう。戦意も確信もないままに上坂すれば敵に負けるは必定。気を引き締めてまいらねば成りませぬぞ」
と、民吉を前にして覚悟を促がしている。民吉は銃隊編成に組み込まれて当惑している。昔のままであれば、退隠間際の五十歳代には、御右筆あるいは御留守居番を仰せ付かる家系である。それが若いとはいえ事もあろうに銃を持って戦うことになったのだから驚天動地の心境であるのも当然であろう。この年、民吉は三十歳である。
八
この日夕方、京都南郊の鳥羽・伏見では幕軍と薩長軍が衝突している。紀州勢がこの戦に巻き込まれたのは既に幕軍が敗退し始めた四日以後である。紀州藩は京へ上洛する幕軍からははずれ大坂近傍警備に当たる役割であったから薩長軍との戦に遭遇しなかったが、五日譜代の淀藩が、富の森、千両松から退却して来た幕軍の入城を拒み、更に六日山崎を守備していた津藩が薩長側に寝返って幕軍を砲撃するに及んで、幕軍が大坂に敗走して来たため、大坂の守備に当たっていた紀州勢は、幕軍と共に戦うべきだという者、紀州に戻るべきだという者が激論を交わし収拾がつかなくなった。
この大坂表での様子は枡屋の勇次からをちえに伝わっていた。民吉の安否を気遣うをちえは、何よりもそのことを知りたかったが、民吉の所属する銃隊は大阪湾の海岸線警備に当たっているという程度のことで詳しくはわからなかった。それに、をちえがいらついていたとき、
「公方様が先の京都守護職・会津藩主の松平容保様、所司代・桑名藩主の松平定敬様、老中・板倉勝静様,酒井忠惇様をお連れになって開陽丸で、八日夜、大坂城を脱け出され江戸に向かわれました」
と、をちえが放っている間者からの知らせが入った。この間者は周旋方の配下で枡屋のために働いている。これを聞いたときをちえは驚きで一瞬声が出なくなった。
「前日の七日に公方様に対する追討令が朝廷から出されましたので、公方様は戦場を離れなさったのでしょう」
と聞くに及んでをちえは、
「幕軍を指揮なさるは何方か、総指揮官が幕僚と共に脱走成されたのでは幕軍も味方の諸藩の兵も戦えぬであろう。紀州藩兵は如何して居るのか、詳細は知らぬか」
と、間者の孫兵衛に詰問するように聞く。孫兵衛は知る限りを話すのに懸命である。をちえが差し出した酒をぐい飲みしている。商人風の服装を身に纏っているが元は侍である。
「津藩が淀川対岸の大山崎から幕軍の橋本陣地に集中砲火を浴びせたので不意を食らった幕軍は総崩れになり申した。淀川は敗走する幕軍でごった返し、紀州藩の大坂近傍警備隊が整理に困難を極めています。最早、秩序などありませぬ。陸路も同じかと思われます」
と、孫兵衛は顔を顰めている。
「敗走の兵が紀州に入るを止めねば成りませぬのう。入らば追手が押寄せてきましょう。紀州藩にはそれを防ぐ軍備は無きに等しかろう。予想もせぬこと故、城中は狼狽致すは必定。御家老の三浦様に早速、伺って見ねばならぬのし」
と、をちえは不安に襲われている。
「いかなる御手配を・・・」
と、孫兵衛がをちえの指示を伺う。
作品名:幕末・紀州藩下級武士の妻 升屋のをちえ一代記 作家名:佐武寛