幕末・紀州藩下級武士の妻 升屋のをちえ一代記
と、民吉は異な事を言った。をちえは一瞬驚いたが、
「まこと、まつりごととは奇妙なものでありますのう。理に叶わぬことでも利用なさる。当座しのぎでしかありませぬがのし。その間に思わぬ異変が起きればどうなさるおつもりかのう」
と、あきれた様子であった。
をちえの危惧は残念ながら本物になった。「ええじゃないか」に沸いていたこの年十月十四日将軍・慶喜様が大政奉還を請願された。紀州藩では天地動転の騒ぎである。
「来るものが来ましたぞえ、慶喜様はそういうお方だとかねがね思っていましたが、徳川家を守ろうと為さった家茂様が亡くなられて公武合体ももくろみ倒れでしょう。薩長は討幕のきっかけを狙っているでしょう。慶喜様がそれに乗せられれば井伊大老様以来のご苦心も水泡に帰しましょうぞ、おそろしいことでありますのし」
と、をちえは討幕の気配を感じているようであった。
この日から、ひと月も経たぬ十一月十二日紀州藩奥右筆・田中善蔵殿が御城砂之丸追廻門外にて首を切り落とされなすった。切人は四人とか五人とか、首を風呂敷に包み持ち去ったという。御城から戻った民吉は顔面蒼白の態で一言も発しなかった。
「田中善蔵殿が殺されなすったとはまことかえ」
と、をちえは驚愕の態で尋ねたが、民吉は頷くだけであった。
「田中殿は急進派であられ、朝廷への帰順を唱えておられた」
それだけ言って、民吉は部屋に篭った。その姿から、よほどの衝撃だったのであろうと、をちえは想像した。民吉が口を開いたのは翌朝の朝食のときだった。
「斬り付けた者たちは横須賀組の一統だと名乗っています。藩祖・頼宣様以来の大御番組の御家柄で、田辺、新宮の付与力衆と由緒を等しくしています。ならば、粗末には扱えず、御預かりの御家に於かれては大切に致されている由です」
と、民吉は困惑の様子であった。
「まことは罪人であろうがのし」
と、をちえは不満を漏らした。だが、思い直したのか、
「横須賀組の方ならば徳川家に殉ずるが命でありましょうから、尊王も公武合体も拒否されるが当然でしょう。この度、慶喜様が仰せ出された大政奉還には激怒なさったでありましょう。田中善蔵殿が尊王派で在られたならば許しがたき人物と狙われなすったも致し方ない仕儀であったと思われますのし。罪人は罪人であり申しても、徳川家に対する忠誠心からの義挙であるとも申せましょうから、御処置に困られるでありましょうのう」
と、をちえは冷静な物言いに変わった。をちえの心中には、一橋慶喜を快く思わないものが渦巻いている。冶宝様以来、紀州徳川家と深く関わってきた枡屋の娘としては家茂様に親近感を持ち続けている。家茂様が二十一歳で大坂城にて薨去されたことを気の毒に思っているのである。
「慶喜様が将軍後見職を辞退なされ禁裏守衛総督に勅命によってお就きなさったことで家茂様は複雑なお気持でありましたでしょうのう」
と、をちえが言うと、
「慶喜様と家茂様は性格が違っておられ、もともと不仲であられたと聞いております。家茂様は吾殿・茂承様を信頼なさっていたそうです」
と、民吉は家茂様に親しみを感じているようであった。紀州藩主であられた慶福様に御仕えしていた頃の思い出もあったのであろう。
この年十二月九日王政復古の大号令が発せられ、藩主・茂承様は病を押して同日京都へ向け出発される。将軍・慶喜様は同月十二日大坂城に到着された。これより先、同月八日長州は官位旧に復し京都に入る。同月九日将軍職御辞退御聞上、同月十日守護職、所司代御免。摂関・幕府御廃止になり代わって、総裁、議定、参与の三職が御役方万機を聞し召される様改められた。武家方からは議定に尾張元公,安芸少将、土佐少将、薩摩少将、参与に尾張、越前、土佐、薩摩からそれぞれ三人が選ばれている。
をちえはこの人選を聞き及んで、
「紀州様のお立場は苦しいものですのう。将軍家、三戸家と並んでよけものにされていなさる。あれもこれも、慶喜様故のこと、まことに憎きお方じゃ」
と、恨みがましく言った。
「慶喜様は何を考えていらっしゃるのかわからないお方です」
と、民吉がそれに続ける。
「徳川将軍家に変わってこの国を治められるのは何方かのし。将軍職が廃されてしまって、慶喜様は京都守護職の会津様と京都所司代の桑名様を引き連れて二条城を撤退なされ大坂城に入り成されたと聞こえておりますが、紀州様も大坂に足止め成されて居る由、幕府が大坂方になられたとは奇妙なことでありますのう。慶喜様は京都の将軍で家茂様が江戸の将軍だと噂されていなすったが、将軍様の本拠が大阪に移られたとは、まこと、悲しいものでありますのう。徳川様が豊臣の居城に結集されるとは皮肉なものでありますのし。不吉な予感がしますのう」
と、をちえは江戸幕府の崩壊の始まりだと感じていた。江戸枡屋の冶信からの知らせでは、幕閣の有力者は外国、特にフランスの援助で幕府を立て直そうと為さっているが、イギリスが薩摩に肩入れしていることもあり、両国が牽制しあっているようだと伝えてきている。それに加えて将軍ではなくなられた慶喜様の御立場が判然としないので、薩長と決戦しようと言う主戦派が近く大坂に幕兵を派遣し、一挙に京都に攻め入るよう慶喜様に御決断を促がすように聞いておりますとあった。
紀州枡屋の勇次からは京都・大坂の情勢を知らされている。既に大坂城では薩摩を討つ準備をしておられて、上洛して来る幕府軍と近畿諸藩の藩兵は合わせて一万五千或いはそれ以上に成り、京都に屯する薩長軍が四,五千とすれば数に於いては絶対優勢であると自信をほのめかしておられますという。
「それは既に決まったことかえ」
と、をちえが尋ねると、
「しかとは解りませぬが、慶喜様の御決断次第と言うことです。慶喜様に入京の勅命が出ていますので、幕軍は薩長と戦わずに平穏に入京の先駆けをして欲しいとの御意向であると聞き及んでいます。これでは薩長から戦を仕掛けられなすったら、幕軍は不意を衝かれて散々な目に遭いなさるでしょう」
と、勇次は懸念している。これを聞いて、をちえは顔を曇らせた。
「戦を覚悟で入京なさるべきでしょう。幕軍が機先を制して仕掛けなければ、薩長が先に討ち掛けてくるは必定、平穏に入京できると思うことが間違いの始まりでありましょうが、慶喜様は困ったお方じゃなもし」
と、をちえは不満を漏らしている。
この年の暮、十二月二十五日藩主・茂承様は病が重く、大坂から和歌山城に戻られた。それは来るべき戦からの離脱を意味している。をしえはそれが心配である。紀州藩は親藩だから徳川宗家である将軍家を支えねばならない。そう思ったとき、をちえの脳裏を一抹の不安がよぎった。慶喜様と茂承様は不仲であると聞いていることだった。前将軍・家茂様と茂承様は意気投合されていただけに、この度の不仲は目立つのだという。それを勇次に言うと、
「お二人の不仲は表面に出でてはおりませぬが些細なことに現れているといわれています。幕府のあり方を巡る御意見の違いが根柢にあるともっぱらの噂です。茂承様は家茂様と御同様に徳川政権を守ろうと思し召しですが、慶喜様は薩摩などとの和解を心に抱いておられるようだと言う者が居ます」
と、勇次が懸念を漏らす。
作品名:幕末・紀州藩下級武士の妻 升屋のをちえ一代記 作家名:佐武寛