卍の謎
「それがどうしたのよ。わたしに付きまとって何を調べようというの。あの事件は決着してるでしょう。それに、あんたは、もう刑事じゃないんだ。ただの老いぼれじゃないの。これ以上付きまとえば、こちらから警察にストーカーだと届け出るわよ。それでもいいの?」
正子は八島を睨みあげて逆襲した。
「俺は真実を知りたいだけなんだ」
八島は正子の剣幕にたじろいだようだ。
「何が真実よ。わたしに花子殺しの疑いがあるっていうの?」
「それがすっきりしないんだ。疑ってるわけじゃないが、何か引っかかるんだ」
「あんたは、自分の捜査を上司に信じてもらえなかったので恨んでるって聞いたことあるよ。私怨でわたしを容疑者扱いにしてるんでしょう」
正子はそれが許せないという表情で詰め寄っている。
「サブローのことも聞きたいんだ」
八島は矛先を変えようとした。
「いいかげんにしなさいよ。サブローも疑ってるの? 直接、本人に聞けばいいじゃないの」
正子は怒りをあらわにしていたが、同時に、自分に対する嫌疑をサブローに移し変えている八島に狼狽の表情が出ているのを正子は見逃さなかった。
「サブローと同棲してるんだろ。何でも知ってるはずだ」
八島は押され気味である。
「あんた、気がおかしくなったんじゃないの。十年も前の解決した事件をいつまで追ってるのよ。それも、あのあと直ぐに定年で退職したんでしょう。気楽に暮せばいいのに。奥さんや子供が迷惑してるんじゃないの?」
「離婚したんだ。女房と子供に逃げられたから一人暮らしだ」
「そうなの。きっと、あんたに愛想つかしたのよ。仕事はしていないの?」
「この年では雇ってくれるところなんかないよ」
「過去の事件を追っかけるのが仕事なのね」
「現役時代にし残したこと、未解決の問題に取り組めばいつまでも若い気分で居れるのだ」
「あんたは、現役を失いたくなかったんよ。その未練が、あんたを閉塞させてる。このままだと執念にさいなまれて悶死するよ」
「余計なお世話だ。俺は虫けらに説教されるほどおちぶれていない」
「まだそんなこと言ってるの。いまのあんたこそ、虫けら同然じゃないの」
正子は八島の挙動に不信を感じていた。部屋のテーブルの周りを歩き回りながら話すのである。まるで刑事の取調べのようだった。もしかしたら、この人は今でも現職の刑事のままでいるのかもしれない。定年退職したことが受け入れられないでいるのだ。この人は気がおかしくなっているとしか思えない。正子は事件から十年目に出会った八島に時間の停止を感じた。この人は過去にしか生きていない、そう思うと正子は八島を慰めてやりたい気持になっていた。
ヤスケのラーメン店に正子とサブローがやってきて八島の事で話し合った。この日は泰子が彩夏をつれて遊びに出ていたので、茜も話しに加わる。
「八島はいつまで俺たちを付けまわすのか、じゃまだよね。正子のところにも来て事件のことをほりかえそうとしたんだって、俺と正子のどちらかが真犯人だと疑っているらしい。ヤスケのところにも来ただろう」
サブローがいらつきながら不満をぶちまけた。
「数日前に来たよ。根拠の無い疑いを喋って帰った。解決済みの事件に八島がこだわってる理由は自分の捜査に対する自信だ。上司がそれを容れなかったから執念を燃やしているんだが、あの事件から十年経ったし、彼はあの後すぐに定年退職しているので、警察とは縁は切れているのだが、執念を燃やして上司の決定を覆そうと躍起になってるようだ。厄介な奴だよ」
ヤスケは面倒でたまらないという顔をしている。
「妻子にも見放されて、一人暮らしだと言っていたわよ。わたしは八島の執念に怖気づいたけど、話しているうちに彼がかわいそうになった。この人は生きる道を失ってしまったのだとおもえてきたからよ」
正子は八島に同情する余裕を持っていた。
「正子、お前に何か後ろ暗いところがあるのか? 怖気づくなんて」
サブローは事件のことが気になって頭は空回りしている。
「サブロー、何言ってるのよ。あんたまでわたしを疑うの?怪しいのはあんたのほうじゃないの、わたしたち三人で花子の部屋に行く前に、先回りして花子を殺ってから戻ってきたのでしょ」
正子も売られた喧嘩を買ったように言い返した。
「そんな目でお前は俺を見ているのか。これじゃ一緒に暮らせんよ。八島に何を吹き込むかわからんからなあ」
サブローはやけっぱちになっている。
「二人とも、よせよ。そんなこと言い合ってる場合じゃないだろう。そういう態度だから八島につけ込まれるんだ。茜も此処で二人の話を聞いているんだぞ」
ヤスケは茜がどのような反応をするか心配になって話をさえぎった。
「あの事件は、父が自分が犯人だと書き残して自殺したことでおわっているのよ。サブローさんも、正子さんも、いがみ合わないでよ。姉さんのためにもね」
茜が二人の険悪な会話を消し去るように言った。
「八島は毒蜘蛛だ。その網に引っかかるようなことはするなよ」
ヤスケは二人に自重を促がす。これ以上厄介なことが持ち上がると、自分たちの家族にも災難が降りかかることを恐れている。
「事件から十年だよ。それも解決済みだというのに、俺たちはまだ解放されていないのだ。一人の元刑事の執念が俺たちを悩ませている。こんなことがあっていいのかよ。正子も俺も、嫌疑なしで解放されたんだ。それなのにまだ喰らい憑いてくるなんて、不条理だと思わないか」
サブローは内心の怒りをぶちまけるようにいったが、むなしい独り言におわる。誰も即座に反応しないまま少しの時間が流れた。そのときだった、
「真実は殺された姉さんだけが知ってるのよ」
茜が突然、口を開いた。皆がぎょっとする。その言葉には十年の重みがあった。これからもこの重みは重なってゆくだろう。彩夏の成長がこの重みを軽くしてくれることが茜の救いなのかもしれない。
「今日はこれで終わろう。サブローも正子も過去は忘れて前向きに生きるんだなあ。茜と俺は泰子さんと彩夏を守って生きるよ。泰子さんを大切にするのは茜の父の遺志を継ぐことなんだからね」
ヤスケは、花子の事件が遠くに消えて言って欲しいと心から思っていた。このままだと、花子の亡霊が付きまとっているようで気味悪いし、何か良からぬことが起こるような気がしていた。
五
六歳だった彩夏も八歳になり小学校に通っている。通学には泰子が送り迎えをしていたが、ある日の下校時に、
「おばあちゃんは、私のお母さんの姉ちゃんを殺したの? お友だちがそう言ったよ、嘘だよね。おばあちゃん、嘘だと言って」
彩夏が泰子と手を繋ぎながら見上げるように首を上げて言った。 その瞬間、泰子の足が止まる。
「嘘よ、誰がそんなこと言ったの」
泰子は彩夏の手をぎゅっと握り締めていた。
「英子ちゃんよ」
彩夏は急に手を離して走り出した。泰子は慌てる。
「危ないよ」