卍の謎
またしても同じことを繰り返す八島にヤスケは勘弁ならない面持ちだった。この話を影で聞いている者がいたのである。それは店の奥にいた茜だった。茜はこの夜、ヤスケに話の仔細を聞きただす。ヤスケは言い渋っていたが、花子殺しの真犯人は継母の泰子ではないかという嫌疑があることを告げた。すると、
「やはりね。姉さんと泰子さんは険悪な仲だったからわたし心配していたの。姉は泰子さんを母だとは絶対に認めなかった。姉がぐれたのもそのためだったと思っていたよ。このことはわたしたちの胸のうちに収めて置こうね。絶対に口外しちゃ駄目よ」と、茜はヤスケが驚くほど冷静だった。
「父があの人をかばった気持を無にしたくない。泰子さんが仮面とつけて生きるのは辛いでしょうけれど、それがあの人に対する罰なのよ」
茜はまじまじとヤスケを見詰めている。その目の光がヤスケを射抜くようだった。その奥には継母に対する復讐心が怪しく燃えていると、やスケは怖さを感じる。同じ屋根の下に暮らしている継母の泰子と茜が、事件から十年経った現在でも秘密とわだかまりをお互いに隠して表面的には穏やかに付き合っているのだ
ヤスケはあの事件を忘れようとしているが、茜には姉妹の情があって忘れられないようである。しかしそのことで自分たちの日常生活が破壊されるのは極度に警戒している。ヤスケはそれを知っているから事件のことには触れないで過ごしてきたのだが、八島の出現で茜の心は揺らぎだしているようだとヤスケは不安を抱えた。
そんなある日のことだった。 茜が慌てるようにカウンター内で働いているサスケの傍にやってきて、サスケに尋ねる。
「うちの店が『食通』に載ってるよ、人気ラーメン店ナンバー・ワンだって。あんたの顔写真まで載せてあるよ。いつ撮ったのかね、あんた、知ってたの?」
「だいぶ前のことだったが、この店の取材に来たといって、若い男がやってきたよ。そのときに写真を撮ったんだろう。この頃はデジカメでパチツだから俺は気付いてなかった。記事にしてくれるとは思わなかったからすっかり忘れてたよ」
「本当は気にしてたんじゃないの?」
「そんなことに取り合ってる暇はないだろう。仕事だよ、仕事」
「うそ、気にしてたって顔に書いてある。わたしに内緒にして、この冊子が出たときに吃驚させようとしてたんしょう、憎い人ね。でもそういうところがあんたの魅力なんだ。俺について来いでしょう」
茜は満面に笑みを浮かべている。ヤスケのほうが照れていた。ヤスケはズバリ自分の思惑を言い当てられて継ぐ言葉がない。そのとき、茜は咄嗟にすばやくヤスケにキスを挑んだ。ヤスケは隙を突かれたようにたじろいで、茜のなすままに唇を合わせ深く吸い込まれる。その温かみの中で、ヤスケが茜に抱いていた不安は溶かされたように消えた。
ヤスケのラーメン店は、この記事のあと、行列の出来るラーメン店で評判になった。茜はヤスケを助けてかいがいしく働いている。その姿からは実母の亡霊は影を潜め、継母・泰子への恨みは体から落ちているようであった。
六歳になった二人の女児・彩夏は、泰子にすっかりなついている。泰子も家に居るときは、彩夏と遊ぶことを楽しみにしているように時を過ごしていた。
「彩夏ちゃんは、歌が好きでしょう、歌ってくれない、おばあちゃん聴きたいの」
「何がいいの、彩夏のレパートリーはひろいのよ」
と、彩夏がませた口を利く。
「そうなの、彩夏ちゃんの一番好きなのを歌ってくれる?」
「それでいいの?」
彩夏は大きく頷くと、大きな声で歌いだした。泰子はうっとりとした顔で眺めている。童謡の一節を歌い終わると、彩夏は、「おばあちゃんも一緒に歌ってよ」と言って、その続きを、小さな口を大きく開いて歌い出す。泰子はそれにあわせるように口を開く。二人の歌声は店にいるヤスケと茜の耳にも聞こえてくる。 二人はニッコリしてお互いに頷き合った。
茜から実母の亡霊が消えて身が軽くなったように見えたのはそれからまもなくであった。茜の泰子に接する態度が柔らかくなる。
「お母さんに、彩夏の遊び相手をさせてもうしわけないです。お店が忙しいものだからつい甘えちゃってすみません。お勉強の面倒まで見てもらって、すっかり助かってます。あつかましいですがよろしくお願いしますね」
「いいのよ。彩夏ちゃんと遊んでいるとわたしも楽しくなるの。気を遣わないでいて頂戴。ばあさん子になったらいけないから、甘やかさないように注意しているけど、彩夏ちゃんは利口だから、言い聞かせれば、直ぐわかってくれるので感心してるの」
二人の会話には和みが出ている。ヤスケも安心して二人の仲を見ることが出来るようになった。十年という歳月だけではなしに、彩夏の存在が大きい。茜の心理の深層には依然として泰子に対する実母殺しの疑念は残っているだろうけれど、それが活動しないで埋もれているのは彩夏がいるからであるとヤスケはそれを実感している。茜の母性本能が彩夏に免じて泰子を許す働きをしているのではないかとヤスケは思っていた。
出世主義の人間からは「虫けら」とさげすまれているような裏町人生の自分たちだが、親子三人と母の泰子が仲良く暮らしている家庭はなにものにも代えがたい幸せだとヤスケは満足している。
四
八島の動きはその後もとまらなかった。彼は正子とサブローに再び疑惑の目を向け、二人と接触を始める。正子の所属するプロダクションが渋谷にあることを突き止めた八島は事務所に出向いて正子に面会を求めた。正子の出勤日と時間を確かめ、自宅や電話番号まで聞きだそうとしたが、事務所は自宅と電話番号は知らせなかった。八島は正子の知人だと偽って是非緊急に知らせたいことがあるからとしつこく迫ったが、事務所の男は、
「プライバシーにかかわることは本人の承諾がないとお知らせ出来ません」と、頑強に拒否する。
八島が正子に狙いをつけたのは、昔の遊び仲間がサブローを挟んで正子と花子が確執していたという情報を、最近、八島に伝えたからである。八島は当時の自分の手帳に書き留めていた正子の遊び仲間に当時のことを尋ねまわっていたが、その中の一人が、正子はサブローにぞっこんで花子には渡さないといきまいていたと八島に洩らしたのである。
十年という歳月は事件を風化させるが、犯人にとってはその歳月が重みになって真実を吐くことにもなると、八島は正子の心の変化見定めようとしていた。そのときが来たのは、正子が公演を終わって控室に戻ってきたときだった。
「久しぶりだな。正子、俺だよ、昔のことなど忘れてるだろうが、俺は忘れられなくてね、あの当時のことをもう一度聞かせてもらおうと思って、事務所を通して、やってきたんだ。少し時間をくれよな」
と、八島は白髪の下から粘っこい目を正子に注ぐ。正子はそれを見返してきつい口調で言い返す。
「事務所から聞いてるわよ。でもなんで今頃、十年も前の事件にかかわってるの? 退職したって聞いてるわよ」
「おれの中ではあの事件はまだ生き続けてるんだ。サブローとは仲良くしているそうじゃないか。花子はかわいそうだったよね」
八島は探りをいれるように正子を見た。それをしかと受け止めた正子は冷ややかに笑う。