卍の謎
それから十年の歳月が経って、正子も三十歳になったが独身である。 サブローはミュージシャンになり売り出していた。ヤスケは神戸・三宮でラーメン店を経営している。学生時代を勉学よりも遊びの時間にして過ごした三人は、会社勤めは最初からあきらめていたのか、嫌っていたのか、「自由」を求めて社会に飛び立ったのである。まっすぐに出世街道を歩く大学時代の仲間たちがそれぞれの職場で組織のために自分を殺して生きている姿を横目で見ながら, 彼等から「虫けら」とさげすまれる人生を過ごしている。
当節は、職業によって人を差別しないのが社会通念のようになっているが、それは表面のことであって、裏では職業によって人を差別している。地位と名誉と収入のために幼稚園から競争させられて有名大学を卒業するように育てられた子供が三十歳にもなるとその先行きがおよそ見えるようになっている。そういう人生に背を向けた三人には、閉じ込められる組織はなくて、海のように拡がる街がある。三人はその海を泳いでいる。正子が独身なのはシンガーソングライターになろうと夢中だからである。その面では正子はサブローと張り合っているのだった。
「二人は同棲してるんだが結婚の意志はないようだ。お互いに縛られたくないのだが離れたくないという中途半端な生活をしてるよ、俺には考えられない。俺は五年前に花子の妹・茜と結婚して子供が一人いる。女の子だ。花子と父親があんなことで死んだあと、あの女教師だった継母に育てられた妹が姉の死因に疑いを抱いて俺に姉の交際相手などを尋ねに来たのが最初の出会いだった。それから何回も会っているうちに情が移ったのだ。肝心の死因のほうは警察の発表程度しかつかめなかったよ」
ヤスケは八島を前にして昔を思い出したように喋っている。八島はラーメンをすすり上げながらその話を聞いていた。
「もう十年前の事件だが、花子殺しの真犯人は継母の女教師じゃなかったかと俺は思っている。死体解剖で花子が毒薬を飲まされたらしい証拠が出たのだ。父親が花子の部屋に来る前に女が訪ねている。このときに毒薬を紅茶に混入した。継母が帰って三十分ほど後に父親が来ている。当時の聞き込みで二人の訪問時間がわかった。俺の推測では、継母の犯行を予知していた父親が、自分の犯行に見せかけようとして、意識朦朧としていた花子の首を絞めた」
八島は確信を持ったように話している。十年前の事件を、職務を離れてからも追い続けている彼の執念が顔ににじみ出ているのだ。聞き手のヤスケはその迫力に圧倒されている。そして、ヤスケ自身が過去に連れ戻されようとしている。
花子の事件は、その妹の茜と結婚したヤスケにとっては昨日の事のようなのである。継母の泰子は事件後、教師を辞めて塾講師をやっているが、一人暮らしはよくないと、ヤスケが自分の家に住まわせた。このことを八島に言うと、彼は、「俺が言ったことは忘れてくれ」とヤスケに頼む。ヤスケは「わかった、わかった」と受け流す。八島のこの発言には、鬼刑事にもヤスケの気持を気遣う仏心があることをうかがわせた。
花子の事件に呪縛されているのは、自分だけではない、ヤスケもまた同じなのだと八島が気付いたのだとヤスケは感じた。その反面、花子と肉体関係まで持っていたサブローと正子が、花子の死をあっさりと忘れたように生きているのは許せないという思いがヤスケに怒りをすら感じさせている。
「警察は、最初、サブローと正子を疑っただろう。あれは何故だ」
ヤスケはその真意を問い質したくなった。ヤスケが警察に事件を通報したときにサブローと正子を被疑者扱いにしたことが今もって納得できないのである。
「サブローと正子が花子を奪い合って、花子をなじり、口論の末にどちらかが花子を扼殺したという想定をしたのだ。お前たちのアルバイは端から信用していなかった。花子を殺ってしまって慌てた末に作り話をこしらえて通報してきたと思ったのだ」
八島は当時のことを思い出すように言った。その言葉にヤスケは反発する。
「俺たちの遊びはそれほど深刻じゃないよ。性交は挨拶代わりだ。いつでも相手を変える。大人は性交に関して古風な道徳を振り回すから厄介なんだ。俺たちの青春時代は性愛ごっこが普通なんだよ。サブローと正子はいまもその延長戦をやっている。
俺は結婚して人生観が変わった。自分の子供を裏切ったり失望させたりしたくないとね。花子の父親は不倫して妻を裏切り、妻に逃げられると直ぐに後妻を娶った。花子はそのことで父親に対する怒りを継母にむけたのだよ。その復讐を継母が花子を殺すというかたちでやってのけたと、あんたも思ったのだろう。その推理は当たってるだろう。だが、父親が犯人を買って出て自殺した。そこで、あんたたち警察の仕事は終始符を打った。
だが、子供であった花子と茜には終りがない。俺はそれに同情し、茜を幸福にしてやろうと思った。俺と茜の十年は、事件の真相を明かすための戦いだった。残念ながらその真相は、あんたの推理の程度しか明らかになっていない。
俺は茜と結婚して、親の不条理がどれだけ子供の心を痛めつけるかを知ったよ。茜は今でも親を恨んでいる。しかも真犯人かも知れない継母と俺たちは同居しているのだ。茜が継母を疑って真相を問いただすことになれば、俺たちも継母も共には生きていけないだろう。それでは、罪をかぶって自殺した父親の心が無になる。
八島さん、あんたはこの事件を十年経ったいまも追いつつけているようだけど、それはあんたの自己満足のためだ。あんたは、あの事件のとき俺たち大学生を、「虫けら」と呼んだことをおぼえているかね。その言葉をあんたに返そう。執念の虫にはなりなさんな」
ヤスケは、八島が定年後の現在も過去の事件を追っている執念に驚愕し、何故それほどまでに執念を燃やすのか、自分の捜査が警察の上層部によって無視されたことへの怒りの激しさを八島から感じた。
「茜は姉の花子のように遊び好きじゃない。男と関係を持ったのは俺が初めてで、そのままストレートに俺と結婚した。 姉の姿が反面教師になったのじゃないかなあ。俺もサブローや正子のようにセックスにけじめのない人間にはないたくないという気持があった。茜と結婚し子が生まれたからは愛とか家庭とかを真剣に考えるようになったね。セックス遊びは茜でピリョードを打ったんだ。妻のある男が、援交したり人妻と不倫したりすると、自分の子供がどれだけ苦しむか、花子の事件で俺は十分に知ったから、俺はそんなことをしないと決心したのだ」
ヤスケは八島に話しているというよりも、自分に言い聞かせているようであった。
「りっぱだなあ。犯罪は職業や身分の上下などに関係ないのに俺たちは、虫けらをそれだけのことで犯人だと想定する習性がある。それで初動捜査を間違えた。泰子が真犯人だと想定もしたが、父親の告白があったからその線は消された。だが俺は、泰子、サブロー、正子のうちの誰かだと今でも思っている」
八島の執念にヤスケはあきれるというよりも苛立ちを覚えていた。
「よしてくれ。あんたの執念のために俺の家庭を壊されたくないよ。あんたはもう警官じゃないのだから穏やかに暮らしたらどうだ」