犬の声
しかし、そんな理想とは裏腹に、一人で生むのだと思うと、胃のあたりがキュウッとしぼんだ。こみ上げた涙に抵抗しようと、あたしはむきになって包丁で野菜を刻んだ。
『二人の子持ち』になると決心したからには、がんばらないと。
今は無理でも、そうしていくうちに、優太の痛み苦しみを理解してあげたい。必ず幸福になれることを信じて。
「ママったら、けなげでしょう?」
自分の涙声を聞くと、なぜかしらけて冷静になれる。あたしは苦笑した。
「変な女」
びっくりして振り向くと、優太が立っていた。
持久戦と踏んでいたところの、あまりの早いお帰りに、あたしは驚いた。包丁の音に、人がやって来た気配にも気づかなかったらしい。
台所だけ電気を点けていたので、優太の右半身だけが照らされていた。頼りなさげで、あたしは彼が立っていることが信じられず、つい言ってしまった。
「何で…?」
「育てなおしてくれるんだろう?」
その一言に、涙がじわりとにじんだ。
「帰り、早いから」
「まさか、何年も大学に泊まり込むと思っていたんじゃないだろうな?よしてくれよ」
もちろん本気でそう思っていた。あたしは涙声を飲み込んで言った。
「ただいま、って言ってよ」
優太はため息をつきながら微笑んでいる。
「ただいま」
「おかえりなさい」
とたんに優太は大きな声で笑い出した。
「おまえはつくづく変な女だよな」
「何よ?」
「だって、あんなひどいこと言われちゃ、女は実家に帰っちゃうだろう?それが、何言われても動かないし、大学には迎えに来るし、やっぱりここで待っているし。
腰が重いんだなあ。置きセリフを浴びるだけ浴びたままでいられるなんて、図太いというか、呆れるというか」
「そうだよ。腰が重いよ。だから、ずっとここにいるよ。何があっても、優太のそばから離れないでいられるの」
真顔になった優太に、あたしは続けて言う。
「安心して。あたしはずっとここにいるから。優太は辛くなったら、また大学に避難して。それでも、あたしは待っているから。優太が好きなときに戻って来て。そう、しつこくしつこく、ここにいるからさ」
台所から電気の点いていない居間に飛び出して、あたしは優太を抱きしめた。
優太がここにいることを実感する。再確認の再確認のそのまた再確認をしたくて、いつまでもぎゅっと抱きしめた。
優太は、ためらうように震えていたけれど、やがて抱きしめて返した。
「五歳も年下の母親か」
暗闇の中、優太の声が柔らかく響く。見上げると、細い目が優しい光を帯びていた。
「うん」
「日香の息子になるのか」
「うん」
「不肖の息子だ」
「ほんと」
「でも、セックスはしてね」
「ばか」
優太は微笑みの柔らかな吐息を吐いた。空気はそれに温められて、暗い部屋に充満した。
家に温度が通い出した。さあ、明かりを点けよう。日の落ちた外から見ても、きっと温かい。
子供が生まれた。男の子だ。
優太は恐る恐る息子を抱きかかえると、生々しい感触に「犬の子と同じだな」と苦笑した。看護婦さんに子供を返したあと、手すきなった両腕をこすってそわそわしている様子がおかしかった。
しかし、それ以後は、必要以上にわが子に触れようとしなかった。顔も直視できずにいる。ときおり故意に胸に手を当てて、万が一の何かを抑え込んでいるのだった。
でも、名前は優太がつけた。
愛知。アイチ、と読む。
「県名みたいだけど、愛を知っている子供になってほしくて」
と言った優太の瞳には、はにかみと祈りが交互に映っていた。
うちの両親はアイチくん、アイチくんとお祭みたいにはしゃぎたてた。しまいにはあたしや優太のこともアイチと呼び間違える始末だ。
優太は、愛知をかわいがった。ただ、遠巻きに見ている感が否めず、義務感がちらちら覗く。
男の人は、父親としての実感をすぐに持つわけではなく、徐々に自覚していくそうだから、あたしは長い目で見守っていくことにした。深刻に考えないことも救いになると、自分に言い聞かせて。
優太は、愛知に暴力を奮わなかった。
愛知をお風呂に入れる係をやってくれたし、思い切り渋い顔をしておむつ替えもしてくれた。
しかし、あたしが留守をするときは、決して一人で愛知の面倒を見ようとはしないのだ。自分の中にあるかもしれない衝動を怖れすぎていたゆえに。
そんなとき、あたしたちは、うちの両親のもとに愛知を連れていく。事情を知らない両親は手放しで大喜び。二度と返すもんかの勢いで、一日中愛知を抱きしめている。
一方、優太は大学へ行くのだ。休みの日であっても。
優太は強引に理由を作って大学に泊まることが度々あった。白衣はいまだに武装らしい。
自分にハラハラしている日常から解放されて、優太は病院の犬をかわいがる。不自然な優しさではなく、心から犬を愛しむ。そんな彼を想像すると、正直、胸が苦しい。
でも、あたしはここにいて、大きな息子を待つしかない。それが優太の幸福をつなぎとめていると、信じて。
ところが、今日、事件があった。
もう愛知は幼稚園に通う歳になっている。
幼稚園の送り迎えは、いつもあたしがしていたが、つい最近足をくじいてしまい、それができない。
足が治るまで両親が送り迎えをしてくれることになったが、今日は両親にも用事ができて、愛知を迎えにいけなくなってしまった。
融通がきくのは、優太しかいない。
そのことが発覚したとたん、たっぷり一時間、優太は動物園のゴリラみたいに部屋中をうろうろ歩き回った。
あたしは見かねて松葉杖とタクシーで愛知を迎えに行く、と告げた。ところが、これが優太の決定打となったらしい。
そんなわけで、今日、父親と息子が、はじめて二人きりになる。
あたしはドキドキした。くじいた足の患部までいつもにましてズキズキする。
もちろん優太を信じている。大丈夫なのは、分かっている。
ただ、優太の気持ちが心配だった。どれだけ不安を抱えていることだろう。出ていくときも、貧血を起こしそうな顔をしていた。
恐怖にがまんできなくて、幼稚園に向かわずに大学へ行ってしまったかもしれない。
それでもいい。しかたがない。
しかし、自分を責めてしまうだろう彼を思うと、いたたまれなかった。
ところが、ほどなくして優太が帰って来た。
愛知を抱っこして、ハアハア荒く息を吐き真っ赤な顔をしている。愛知は健康優良児だから決して軽くはなかったろうに、そんなにまでして二人きりの時間を短縮しようとしたのだろうか。
優太は丁寧に愛知を降ろしたが、口をきかなかった。細い目をせいいっぱい見開いて、息をすることに懸命だ。
父親譲りの目が線になってしまう笑顔で、愛知が言った。
「ママ、パパね、犬がお話しするまねをしたんだよ」
とたんに優太が泣き出して、あたしはびっくりした。
幼い愛知が語るところをまとめると――。
優太と愛知の帰り道、途中に、大きな犬がいたのだそう。
そりゃもう大きな犬で、しかも怖い顔をしている。
愛知は優太の影響で犬好きな子供だが、その犬ばかりは恐れて身体を強張らせた。