犬の声
「虐待を受けた子供は、自分が悪い子だから親に暴力を受けると思い込むんだ。そして自分を信じられなくなっていく――日香も講義で習っただろう、人格の固まらない時期に受けた暴力は、精神にこびりついてしまう。時には、そのこびりついたものこそが、精神の支柱になるほどに」
「優太は違うよ」
「違わなくないかもしれない。虐待がフラッシュバックすると、だれかにその苦しみをぶつけたくなる。力のまま腕を奮うことを想像する。弱い者を壁に叩きつけたくなる。その想像は、解放感あふれ、ひどく甘美だ。
そんな俺が、虐待の連鎖を継がないとだれが言い切れる?怖いよ。親から受け継いだ俺の悪いものがムクムクと湧き起こり、日香、いつかおまえを傷つけてしまうかもしれない」
「優太がそんなことをするわけないよ!」
ところが、あたしの必死の否定も彼には虚しいだけだった。
「日香、俺、怖いよ。やっと築いた幸福が壊れてしまいそうだ。こんなにおまえが好きなのに、いつか傷つけてしまいそうだ。それで失ってしまうなんて耐えられない」
ああ。あたしは何も分かっていなかった。彼を、子供時代を乗り越えた強い人だと思っていた。強く優しい、あたしの自慢のだんなさま。
でも、こんなにも弱く、怯えていた。
苦しかったね。ごめんね。優太の過去、痛み、苦しみ、恐怖、絶望、全部分かってあげなかった。
あたしだけが幸福だった。ごめんね、優太。
「だから、子供はいらないと言ったのね。子供に暴力を奮うかもしれないのが、怖かったのね。そうなることを怖れたのね」
「俺が子供に暴力を奮えば、おまえは俺を憎むだろう。憎まれているのが分かっても、父親譲りの本性に捕らわれて、俺は子供に残酷なことを繰り返すだろう。おまえは子供を守ろうと、俺を遠ざけるようになる。俺を見限って、俺のもとから去っていくに決まっている。今はこんなにも愛してくれているが、おまえは俺からいっさいの愛情を引き揚げて、二度と帰ってこないだろう。家庭を、聖域を、俺は失ってしまうんだ」
日香を失いたくない。でも、子供が生まれれば、俺は日香も子供も失ってしまうかもしれない。過去よりも現在と未来が大事だと、おまえは言ったな。だからこそ、俺は現在と未来を守りたい」
あたしは自分の鈍感さに、唇を噛んだ。なぜ理解しようとせずに、責めることしかしなかったのだろう。
優太が一番望んでいることを分かっている気になっていて、優太が一番怖れていることまで、あたしは見失っていたのだ。
優太は袖で目元と鼻を拭った。強くこすって、よけいに顔が真っ赤になった。
「ごめん。これから授業の準備あるんだ。そろそろ行かないと」
優太はあたしに白衣を催促し、自分の身長にぴったり合うそれを着込んだ。白衣効果は抜群で、冷静な研究員顔に戻る。武装のようにも見えた。
実際、これから言うだめ押しに、彼には武装が必要だったのかもしれない。
「安心しろ、俺はこの先もずっとおまえを守っていく。できる限り優しい男でいるよ。だから、堕胎のこと…頼む。俺、しばらくここに泊まるから、気持ちが決まったら、連絡して。病院には俺も付き添うよ。身勝手なようだけれど、もう俺にはそれしかないんだ」
たった一枚はがされただけなのに、あたしは空気を冷たく感じた。無防備なあたしに比べて、優太は自分だけ武装し、ずるいな、と思った。
でも、はおるものがなくなったことで、あたしは不思議とおなかに力が入るのを感じていたのだ。腰が一本の芯で支えら、安定している。これを、「腰が据わった」と、表現するのかもしれない。
頭まですっきりしていた。ただ、「愛している」という気持ちには、変わりはなかった。
あたしは、去っていこうとする優太の背中に言った。
「つい最近、汚職がばれて自殺した政治家がいたでしょう。その政治家の両親は、息子が汚職していることは薄々と分かっていたはずなの。ところが、テレビカメラに向かって『息子は無実です』と、一生懸命繰り返し叫んでいた。息子を信じたの。かばったの。
マスコミはその両親を親バカだと非難したけれど、あたしは両親の気持ちに感動した。どんなに悪いことをした子供でも、子供である限り、親は守るの。最後に守ってくれるのは、親だけなの。倫理も道理も無視して最後まで味方でいてくれる。
うちの両親もそうだ。あたしがたとえ人殺しになっても、あたしを愛してくれるはずだよ。だから、あたしも自分の子供がどうなっても、子供を見捨てない。最後まで愛する。子供を嫌いになることなんかできない。憎むことなんかできない」
優太は立ち止まってくれたものの、背中越しに言う。
「俺には、そんな親はいなかった。日香の言っていることは理解できないよ」
優太の言葉なんて無視して、あたしは間髪入れずに言ったのだ。
「だから、優太もあたしの子供になればいい!」
さすがに驚いて優太は振り返った。
「あたし、おなかの子、生むよ。おなかの子と一緒に、優太もあたしが育ててあげる」
「何むちゃくちゃなことを言っているんだよ?」
「自分の子供なら何があったって、あたし、憎まない、見捨てない。たとえ優太が子供を殴っても邪険にしても、あたしのことだって傷つけても、優太があたしの子供の一人なら、あたしは優太から離れないよ。何をしても、優太を守り通すよ。
そして、いっぱい愛してあげる。優太が昔そうしてもらえなかった分まで、愛しなおしてあげる。優太は、今から愛されることを学べばいい。愛する方法を学べばいい。暴力以外のことを、あたしが教えてあげるから。
あたし、優太のお母さんになるよ。ずっと優太のそばにて、だれも優太を殴らないよう、優太を守ってあげる」
優太はあたしをじっと見つめた。細い目が真っ赤だ。痛々しい。
ふと風に飛ばされてしまいそう。壊れないで――あたしは願った。
「そうなったら、父親がいなくなる」
優太はひらりと背中を向けて、去っていった。
あたしはついに耐えきれず、しゃがみこんでワアワア泣いた。
白衣の背中ばかり思い返し、おなかを繰り返しなでて、力の限り泣いた。
せっかくの母校の春も、あたしから忘れられていくことを、引き止めもしてくれなかった。
むなしく一人で家に帰ると、だれもいないことが、ことさら寒く感じる。
「温かい家庭」か。よくあるフレーズだけれど、確かに人がいて初めて家には温度が通うのだ。
太陽が一日で一番濃い色を空ににじませている。ベランダから見渡すと、近所では、そろそろ明かりを点けている家もある。
暗くなればなるほど明かりが際立つことに、今日ほど温かく、せつなく思うことはなかった。
優太の心を可視した気がした。
夕飯を作りながら、今後のことを考えた。
十月もすれば、この子が生まれる。あたしはこの子を育てる。
優太は、大学に泊まり通しで、帰ってこない。
でも、あたしはこの子と一緒にずっとここにいる。優太のかたくな気持ちが解かれて、ここに帰って来る日まで。
あたしは優太に聖域をいつも用意しておこう。彼がだれにも侵されない、愛情だけがいっぱいの世界。