犬の声
犬は、愛知を睨み、喉をグルグル鳴らし、今にも吠えかからんばかりだ。愛知は泣きそうになった。
そのとき、優太が言ったらしい。
『愛知くーん、怖くないよー。ぼくは今はちょっと機嫌が悪いから近寄ってほしくないんだけど、本当は愛知くんが好きで、友達になりたいんだ』
犬になりすましたその声は、高く細い優しい響きだったと、愛知は言う。
愛知はほっとして笑った。
ところが、当の本人の優太は笑わなかった。何かにひどくびっくりして、手で口元を押さえている。
パパ、どうしたの?と、愛知が言うが早いか、優太は愛知をしっかり抱き込んで、あれよという間に全速力で走って帰って来たらしい。
あたしは、泣く優太のかたわらでその話を聞いたとき、初めはわけが分からなかった。
「犬のまねして、泣いた?」
あ。
突然、ひらめいた。
優太の犬好き。彼のお守りになっている話。
犬のまね。
まさか。
「優太、優太!」
確かめようと優太を揺さぶると、優太は涙いっぱいの顔を上げ、あたしに言った。
「おやじだったんだ。珍しく酔っていなくて、一緒に散歩していた。犬がいて、俺は怖かった。でも、おやじが、優しい声で犬の話すまねをして、俺の恐怖を取り除こうとしてくれた。あのおやじが、俺のために…。
なぜ、犬だと思い込んだのだろう。おやじを憎むあまり、俺が記憶をねじ曲げたのか?こんな大切な思い出を、俺はなんてバカなんだ」
優太は再び鳴咽した。
愛知が心配して優太の頭をなでると、優太は息子を抱きしめた。柔らかな身体をむさぼるように。
優太の中の神様が、彼に、愛し愛されることを許した瞬間だった。
優太のお父さんは、優太の人生を左右するほどのひどいことを、彼にした。あたしたち家族に悲しく影響した。あたしは、優太のお父さんを恨んだりもした。
でも、虐待と疎外とは別の顔が、優太のお父さんにもあったのだ。
幼い優太の手を引き散歩に出かけ、犬からかばい、おそらくそっくりであろう細い目の笑顔を息子に向けたのだ。たとえ、それが酒気をおびていない一時のことであったとしても。
そう。愛していないわけではなかった。
幼い優太は、それをちゃんと受け取っていた。わずかではあっても、愛されることを知っていた。そこから、愛することを学んでいた。人として、愛を継ぎ、愛を引き渡すことを、ちゃんと身の内に備えていたのだ。
優太、もう震えなくて良いんだよ。あなたの愛情も優しさも、偽りではない、何より確かな真実だ。
あたしは、優太と愛知を抱きしめた。
犬の声――。
あたしたち家族の歴史が始まる。
世界中の愛情の声が、あたしたちに届けられ、それを受け取っていることを、いつもいつも見失わないようにと、あたしは願っている。
<おわり>