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犬の声

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そんなんじゃない。だれかに教えられて知っていくんだ、子供の愛し方を。自分がどんな風に愛されたかで、自ずとそれを学ぶんだ。

でも、俺は学んできていない。だれも俺にそんなことは教えてくれなかった。

おやじは、俺を憎んでいた。俺は親に邪険にされることは知っているが、愛されることを知らない。だから、自分の子供をどう愛していいか、きっと分からないよ。ましてや愛さないかもしれない。子供に愛情を教えてやれない。そんな父親は、この世にはいらない!」

優太の最後の言葉は、噛みしめすぎてかすれてしまった。

彼の一気の告白に、あたしはぼう然とした。こんなことを聞くのははじめてだったし、妙な理屈と思い込みにびっくりしすぎて、すぐには言葉が見つからない。

納得できるわけがない。理不尽だ。

確かに辛い過去。救われてほしい。救ってあげたい。

でも。

「もう、いるのよ」あたしはおなかに触れた。「ここにいるの、あたしたちの子供が!」

哀しいだけの理屈で、あたしたちの子供を否定しないで。

ところが、優太は額に手を当て顔の半分を隠してしまった。あたしを見ないようにして、全身で拒否している。彼にこんな風にされるのははじめてで、それもあたしにはショックだった。

なぜ、そこまでかたくなになるのだろう。過去に打ちひしがれるだけで、立ち向かおうともせずに。なぜ、そこまで辛く思い込んでいるの?そんな弱い人ではなかったはずだ。優太の諦めが理解できない。

意気地なし。悔しい。あたしなら、一緒に闘うのに。幸福は、すぐそこにあるのに。

「負けてしまうの?過去の悲しみに、今ここにある愛情は、太刀打ちできないの?過去は絶対?現在も未来も、無意味なの?

あたしは優太が好き。愛している。優太のお父さんが本当に優太を愛していなかったとしても、そのことに、あたしは負けてしまうの?優太は、あたしを愛していること、あたしに愛されていることよりも、お父さんに愛されていなかったことの方が、大事なの?

『愛されなかった事実』に、『愛されている事実』が勝てないなんて、あたしは信じない。信じないから!」

「俺だって信じたくないよ。でも、おまえの言っていることは、きれいごとだ。現実じゃない。理想論でしかない」

「優太こそ考えすぎだよ。そんなに悪く悪く考えちゃだめだよ」

が、肩に触れようとしたあたしの手を、優太は避けた。手で口を覆ってブツブツ何か言っている。あたしに話しかけているのではなく、自分に話しかけているのだ。何かを必死に目で探し、春の日差しが見えていないのだ。

「過去なんて忘れてしまいたい。そのための努力なら、何だってやってやる。愛情を知らなくても、良い人間であろうと努めてきたんだ。偽善者でもかまわない。大事な人たちを失わないためなら、偽物の優しさでも思いやりでも、俺は背負っていくつもりだった。もう独りはごめんだ。だれかが俺から離れていくなんて、耐えられない」

あたしは何度も優太の名前を呼んだ。呼ぶほどに声が大きくなり、行き交う学生たちが肩を震わせて振り向く。

すると、さすがに優太も正気を取り戻した。しかし、細い枠の中で、瞳は乾いた灰色に沈んでいた。

優太は言った。

「でも、努力がかなわないことだってあるかもしれない」

そして、最後の砦を自ら崩すことを決めた兵士のように、力いっぱい歯をかみしめた。

「日香、俺なあ、おやじに殴られていたんだ。おやじは俺に愛情を教えてくれなかった。その代わりに、俺が教わったのが、暴力だ。俺は、実の親に、ずっと虐待されていたんだ」

優太は震えてすすり泣き出した。

…大ショック!

あたしは、優太が言わんとしていることが、やっと分かったのだ。

幼児虐待。

今ようやく世間に認知された問題だ。昔からあったことなのに、ここ最近の新しい風潮としか受け止めていない人たちもいる。

なかなか表面化されない問題だから。家庭内の奥深くに沈殿しているため、外部の人間は、ほとんど気づかない。

その沈殿物に息を塞がれている子供たちが数えられないほどいることを、あたしはテレビや新聞だけでなく、大学の講義でも習った。

しかし、身近でその影を引きずる者を、考えたこともなかったのだ。あたしは、周りのみんなを自分と同じで、幸福ではないにしても不幸なわけでもない、と思っていたから。

最愛の人ならなおのこと、自分の分身のように錯覚して、まさか思いも寄らなかった。

「おやじは、まるで酒のつまみのように、俺を殴ってばかりいた。酔っていなくても、突然怒り出して、俺を畳やタンスに叩きつけた。おやじが殴るのにはルールはないんだ。毎日が痛くて怖くて、震えていたよ。

おやじの形相はまさしく鬼だった。少し微笑んでいるのが、たまらない。なぶられて揺れる視界の中、おやじの顔、おやじの拳、おやじの足の甲が何度もよぎる。痛みが熱くて息もできない。自分の骨のきしむ音が、胸の中でこだまして、それがまた恐ろしい。

日々が恐怖だった。大人になった今も忘れられない。突然フラッシュバックして、どっぷり冷汗に濡れる。

なぜ忘れられないんだ。いまだに全身が青あざだらけな気がする。おやじを振り払うつもりで、独りがむしゃらに生きてきた。今の俺は、おやじを殴り殺すこともできるはずだ。なのに、俺の中の子供の心が、恐怖を忘れない。いもしないおやじを、俺はずっと怖れていくのか。いったい、いつ救われるんだ…!」

あたしは、さっき自分が思ったこと、言ったことを思い出し、震えた。「過去の愛情よりも現在の愛情が尊い」「優太の意気地なし」「考えすぎ」――嘘だ、身体に刻まれた恐怖にはかなわない!

小さな優太を想像した。小さくて、弱くて、知恵もない。四方の壁中、小さな優太は叩きつけられている。

あたしは耐えきれず、ぎゅっと目をつぶって想像をかき消した。

どうしてだれも優太を助けてあげなかったの?あたしは守ってあげたかった!過去に戻って、優太を抱きしめてあげられたなら。

しかし、現在の彼なら抱きしめられるほど近くにいるのに、あたしはその身体に触れなかった。すっかり消えているはずの身体の傷に触れてしまいそうな気がして、怖かったのだ。

「一人で苦しんできたの?あたしが愛されて育ってきた子供だから、理解できないと思ったんだね。でも、その通り。ごめんね、あたし…」

優太は首を振った。

「おまえは、ちゃんと俺に安らぎを与えてくれた。家に帰れば、温かさに満ちていた。俺が子供の頃、知らなかった空気だ。そこには、俺を殴る者はいない。まるきり痛みのない安全地帯、聖域だ。その中心に、いつも日香がいた。

日香が愛を知っている子供なのが、羨ましかった。その日香が、俺に笑顔を向けてくれる。その意味が、分かるか?愛情の化身のようなおまえに愛されて、俺も愛に相当する人間だと、はじめて神様に許されたと思ったんだ」

「優太はずっと昔から愛される価値のある人だったよ。優しい人だよ。みんな知っているよ」
作品名:犬の声 作家名:銀子