犬の声
大学は、春の緑で満ちていた。広い敷地いっぱいに広がる芝生に胸のすく思いがする。ごく最近生え変わった葉桜がさわさわ風にそよぐのを見て、いちいち新しい緑にはっとした。
いまだに名前は知らないが、あたしの背よりも高い茎の上、黄色い花の群生が風にクルンクルン揺れていて、微笑みを誘う。妊娠で敏感になっているせいか、緑と土の匂いをやけに強く感じる。でも、それはいやな心地ではない。
少し肌寒いところに受ける日差しも、何かの励ましのよう。
こんなに母校がきれいだったとは。あたしは懐かしさと新鮮さの両方に、なんだかほっとしてしまった。
すると、背中をぽんと押された気になって、あたしは口を開いていた。
「こうして一緒に歩いていると、学生の頃に戻ったみたい」
「うん。そうだね」
優太が応えてくれたので、よけい安心することができた。
「久しぶりに優太の白衣姿を見たよ」
「着てみるか?手術してきたから、返り血がついているけれど」
嘘ばかり言いながら、優太はあたしに白衣を着せてくれた。
男性用の白衣は、思いのほか大きくて、あたしは子供が父親の背広を着ているようなかっこうになった。大きなものに包まれると、小さな子供に戻って守られている気分になる。白衣の肩の線があたしの腕の関節にまで下がっているのが目に入り、ぐっとせつなくなった。
そのせいで、唐突に切り出してしまったのだ。
「嘘だよ。子供が嫌いなんて」
優太は、あたしが知っている彼のままの顔で、素直に応えてくれた。
「そうだな」
「継介のことはまったく…」
「分かっているよ。思いつくままの言いがかりだったんだ」優太は自分自身に溜め息をつきながら頭を下げた。「ごめん。この前の夜は、言いすぎた」
しかし、次に彼は、硬い表情であたしのおなかを見つめ言ったのだ。
「でも、やはり子供は諦めてほしい」
激しく言われようが穏やかに頼まれようが、世界最低最悪の台詞のショックは、あいかわらず絶大だ。
百回言われたら平気になるかもしれない。だったらあと九十八回言ってほしい。
「子供が嫌いではないのに、子供を諦めなきゃいけない理由が、どこにあるの?」
「俺は、父親にはなれないから」
「もう父親だよ。この子は、優太とあたしの子供だよ」
でも優太は首を振る。
「俺は児童保護施設で育った。奨学金でここまで来たんだ。母親は俺が五歳のとき死んで、施設に入るまでおやじに育てられた。そのおやじも蒸発し、今では生きているのかも分からない」
もちろん、そのことは知っていた。付き合いはじめたときに、優太自身が話してくれたから。彼の寂しい生い立ちに、あたしは一層彼を愛したいと思ったのだ。
こうしてとなりに並んでいると、確信せずにはいられない。優太がどんな素性であろうとも、あたしは、優太が好きでたまらない。
だからこそ、彼の子供が欲しい。早くみんなで家族になりたい。
あたしのせつない気持ちを知ってか知らずか、優太は話を続ける。
「日香のご両親に挨拶に行ったとき、すごくうれしかった、俺にも、お父さんお母さん、と呼べる人ができるんだと。二人とも良い人たちで、いかにも日香のパパママという感じがした。あったかな家庭で育った日香が羨ましかった。俺も、日香と二人でこんな家庭を築くぞと、胸に誓ったよ」
「そのパパとママも、優太のことが大好きだよ。結婚にも大賛成だった。パパなんて電話してくると必ず優太としゃべりたがって、実の娘よりも義理の息子のファンなんだもん」
あたしが苦笑する。優太も苦笑する。
が、優太はあいかわらずあたしの気持ちと反対のことばかり言うのだった。
「俺も大好きだよ。でも、やはり俺は、日香の両親…お父さんのようにはなれない。俺と日香とは違うんだ」
急にトーンが落ちた優太の声と、思わぬ話の展開に、あたしは慌てた。
「どうして?優太が児童保護施設で育ったことと関係あるの?うちの両親が、そのことで何か言った?言うわけがないし、考えてもいないし、今時施設育ちがどうだのこだわるなんて時代錯誤もいいところで」
「施設で育った子供にもいろいろある。経済的事情で親がいながら施設で暮らさなければならない子もいたし、それこそ両親と死に別れた子もいた。でも、一番多いのは、親に見離された子供だ。捨てられた子供だよ。
日香は偶然の不幸としか思っていないし、『今時』という言葉を使うけれど、少なくとも俺が育った施設には、そんな子供ばかりだった。そして、俺もその一人だ」
「優太、あたしはそんなつもりで…!」
優太は肯きながらあたしをなだめる。
「親に愛されなかった子供なんだ。俺はおやじに疎まれて、捨てられた。
おやじは俺に向かってよく言ったよ。おまえさえいなかったら、とっくに別の女とやりなおしている…おまえさえいなかったら、一人自由気ままに生きていける、おまえが憎くてしかたがない、と。
ついには粗末なアパートに幼い俺一人を残して、どこかへ消えてしまった。おやじの言う『自由気まま』な人生を手に入れたのだろう。
今さらおやじを思い出すこともないし、どこで何をしているかも知ったこっちゃない。憎んでもいないが、会いたいとも思わない。過去の人だ。それでいい。
ただ、俺の胸の中にしこりがある。普段はまるで意識しないのに、突然呼び覚まされる――自分が、親に愛されなかった子供だということが」
優太は、一息ついて、同じことを繰り返した。
「俺は、親の愛を知らない子供だ」
「だからこそいっぱいいっぱい幸福になろうと、約束したじゃない。結婚するとき、にぎやかな家庭にしようと約束したでしょう。なのに、どうしていまさら父親になれないと決めつけるの?」
が、優太は首を振った。何度も振った。
あたしは詰め寄らずにいられない。
「親の愛を知らないと、だれも愛せないと言いたいの?じゃあ、あたしのことは?あたしのこと、愛していなかったの?」
「愛しているよ。昔も、この先もずっと。日香の言う通り、不幸な子供時代の分、幸福になってやると思ったんだ。日香を好きになってから、日香といることが俺の幸福になった。親の愛情を知らない俺は、人を愛せない人間かもしれないと思いつつも、幸福になるために、日香が欲しかった。その気持ちは止められなかった」
結婚以来の愛の告白が、こんなときでも嬉しかった。しかし、やはり彼の話はあたしの気持ちと一致してくれない。あいからずの否定形で話が進むばかりだ。
「でも、子供は違う。伴侶を求めるのは、人間の本能だ――孤独を癒すための。また、女は生む性だ、もともと母性が備わっている。
しかし、父性はあやふやだ。本能と言うにはあまりにも物足りない。子供がほしいと思っても、それは父性じゃない、種の保存への欲求にすぎない。
女が出産を現実として受け止めるとき、男は目の前の新しい人間を、自分の子供だと告げられても実感がない。男は本能に欠落している部分を、どうやって埋めていくのだろう。ひとりでに学習するのか?育児書でも買って勉強すれば、父性を体得できるのか?